第66話 富士川の戦い

 ――四日後、十月かんなづき二十日。


 駿河国するがのくには富士川にて、頼朝軍と武田軍――源氏両軍は合流した。

 この時までに、散り散りになっていた武者たちが、頼朝の軍中に帰ってきていた。


 佐々木四兄弟が生きていた。

 加藤兄弟が生きていた。

 与一の弟、土屋小次郎義清が生きていた。

 宇佐美実正が生きていた。

 景義も、豊田次郎も、勿論、そこにいる。

 みな瀕死の逃避行をくぐり抜け、以前よりも逞しさを増して、ふたたび力強く頼朝の陣営を固めていた。

 奇跡のごとき、再生であった。


 源氏軍およそ六千騎と、平家軍四千騎とは、富士川河口の広大な沼地を挟んで対峙した。

 源氏方はあらかじめ、敵の十倍「源氏軍四万騎」の噂を東海道筋の各宿場に流しておいた。

 頼朝の御家人たちは、東海道の遊女宿の上得意ばかりである。

 方策が決まるや、すぐに部下たちを遊びに行かせた。

 噂はたちまち、野火の如くに広がった。

 軍中に遊女を招いて戯れていた平家軍にも、当然、その噂は伝わった。


 源氏の大軍を彼方に見た時、平家方は四万という数を信じた。

 たちまち陣中に、底知れぬ恐怖が広がった。

 自分たち西国の武者と違い、坂東武者は好戦的で命知らずの蛮勇にあふれている――そう、かれらは頭から信じこんでいた。


 実際、興津御亭に到着した時、そこに待っていてくれるはずの橘遠茂の三千騎の姿が、どこにもなかった。

 見当たらなかった。

 煙のように、幻のように、消えていた。

 ……ただそこにはぼろぼろの格好をした幾人いくたりかの落人おちうどが、意気消沈し、うずくまっていた。

 問い質してみれば、味方はすでに跡形も無く、源氏軍によって完膚なきまでに踏み潰されてしまったのだという。

 まず、この疑いようもない眼前の事実に、平家軍は心底まで怯えてしまった……怯え切ってしまった。


 その夜のこと、幾万羽の水鳥の大群が、広大な沼の水面から一斉に飛び立った。

 この万雷のはばたきを、敵の夜襲と勘違いした平家軍は、あろうことか、陣を捨てて壊走した。

 ありうべからざる事態だった。

 いくつかの偶然的な事件が重なって、雪崩を打ったように全軍が都めざして逃げくだった。


 ……源氏方は戦わずして、勝利を収めたのである。

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