第67話 景親、落日を眺むること

 ――この驚くべき敗報は、河村山の景親軍にも絶大な衝撃をもって伝わった。


 景親、河村義秀、首藤経俊、長尾新五、新六、香川五郎、柳下五郎、佐々木五郎ら……景親軍の諸将は、河村山の山上から、まったく寄るべのない心地で、茫然と西のかたを見つめていた。

 沈みゆく夕陽が、地の底から空を照らしている。

 紫色の雨雲が、不気味な桃色の光を宿している。


 ……あしたには紅顔こうがんありて世路せいろに誇れども、夕べには白骨はっこつとなりて……郊原こうげんつ……


 味気なく、景親は口のなかで漢詩文を唱えた。


 ふた月前の石橋山で、かれら景親軍は自分たちの強さを誇り、疑わなかった。

 勝利はかれらの手のなかにあった。

 ところが今や、崖から足をすべらせたかのように、前途は塞がれてしまった。

 ――誰が予想できたことだろう。

 滅亡したはずの頼朝が、地の底から万騎の主となって現われようとは。

 頼朝は、地の底に埋められたのではなかったか。

 石を抱いて入水じゅすいしたのではなかったか。

 かれが率いてきた万騎の兵とはまさしく、黄泉の底から連れてきた地獄の軍団に違いあるまい。


 ……同時に、栄華の輝きに包まれながら押し寄せてきたはずの平家軍が、朝露の如くに消え去ってしまったという伝聞も、景親にはまったく理解しがたかった。

 水鳥の羽音に驚いて、逃げ去ったのだという……真偽のほどはわからないが、平家軍が壊走したのは事実であり、この聞くも情けない水鳥の噂は、景親軍の士気をどん底まで落胆させるのに充分なものだった。

 これらすべてのことが、わずかふた月のあいだに起こったのである。


「義秀」

「ハッ」

「二十年前、私は死ぬはずであった……」

 地を這いずるような声で、景親は言った。

「平治合戦の折、源義朝公の幕下にあった私は、平家に敵対し、敗残した。だが敵の大将である平清盛たいらのきよもり公に命を救われ、九死に一生を得た。私はあの時、死ぬはずであった。ところが、生き延びた。

 この度は逆だ。この二十年のあいだ、東国に輝かしい権勢を誇った自分が、まさかふた月で没落し死ぬことになろうとは考えてもみなかった。必ず死ぬと思われる者が生き、必ず生きると思われる者が死ぬ。この世はまったく、測り知れぬ……」


「……」

 義秀ら、若い幕僚たちは、いらえを返すこともできず、戸惑うばかり……

 まったき静寂のなか、景親の孤独な想念は、どこまでもどこまでも、暗いよどみのなかに沈んでゆく。

 ……やがてかれは、きっぱりと言い放った。

「源氏に投降する」


 驚いた若武者たちは、非難の声を張りあげた。

「都へ逃れましょうッ」

「――無理だ。どちらへ行こうが、源氏軍に埋めつくされている」

「最後の最後まで戦うのです」

「――いや……」

 景親は首を横にふった。

「戦機はすでに過ぎ去った。平家軍が逃げたことで、わが軍の士気は下がりきっている。すでに逃亡者も多い。投降しよう。私はおそらく処刑されるだろう。二十年前に失ったはずの命……惜しくもない。

 だが、そなたら若い者たちは九死に一生を得るかもしれぬ。かつて私が清盛公に生かされたように……。そしてそこには、慮外りょがい栄華えいがさえ待っているやもしれぬのだ」


 若者たちは耳も貸さずに激昂した。

「最後の一騎まで戦いましょうぞッッ」

「いや、私はこの軍の総大将だ。若い者たちが生き延びるすべを、考えねばならぬ……」

「われらは戦場で死ぬより他、望みはありませぬッ」


 なおも交戦を願う青年たちを尻目に、景親はかたくなに押し黙ったまま……辺りは次第に、冷たい闇に包まれていった。

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