第64話 官軍、武田軍と交戦すること

 対する武田軍は、充分に準備して、この時を待っていた。


 いよいよ合戦前夜になると、『鼠』と呼ばれる隠密兵を敵軍内に送り込み、ひそかに弓弦を切って回らせた。

 翌日の合戦には、みずから弱軍のふりをして逃走し、追いかけてくる官軍を、自軍に有利な狭隘きょうあいの谷間に誘い込んだ。

 そして前後の隘路あいろを塞ぐや、たちまち伏兵ふくへいが山上から矢石を放ち、思うがままに官兵を殲滅せんめつした。


 武田方の最前線では、加藤太光員、加藤次景廉の兄弟が、矢を放ち、太刀をふるい、血に飢えた悪鬼の如くに奮戦していた。

 流浪の逃亡生活の末、ついに武田の食客となっていたかれらは、ここで石橋山での屈辱を存分にそそいだ。

「俣野はどこじゃッ、俣野はッ」

 憎き仇とばかりに、景廉は敵将の姿を捜した。

 ……しかし五郎の姿は見つからなかった。


 俣野五郎は闘いの玄人であった。

 敗色を機敏に悟るや、たちまち戦場に背をむけ、逐電していた。

 かれは一個の闘士としては、達人であった。

 しかし、こまごまと戦略を巡らす人間ではなかった。

 大略を見抜く目を、もたなかった。


 残された橘遠茂は、加藤兄弟に無惨にも討ち取られ、三千の官軍が、わずか半日で消滅したのである。





(全滅――)

 松田御亭の景親は、この驚くべき敗報を受け、信じられない思いで身をふるわせた。

をこなり……五郎……なぜ平家を待たなかったかッ。なんのための清見が関ぞ)

 平家本軍、興津軍、そして景親軍――この三者の力が合わされば、頼朝にも太刀打ちできるはずであった。

 それが、とんでもない計算違いが起こってしまった。

 取り返しのつかない弟の愚行に、景親のはらわたは煮えくり返った。

(落ち着け、落ち着くんだ……)

 額に深い二本の縦皺を浮かべ、景親は湯飲みの茶を飲み干した。

 高級なはずの茶も、渋く、すっかり冷め切っていた。


「殿ッ」

 斥候うかみが庭に飛び込んできた。

「何事か」

「頼朝です、頼朝が動き始めました。その数、およそ五千ッ」

(とうとう来たか)

 鎌倉に腰を据えていた頼朝が、いよいよ西へ進撃を開始したのだ。

(武田と息を合わせているらしい……)

 景親は、敏に悟った。

 ほどなくして頼朝の尖兵は、この御亭にも襲い来るだろう。

 景親の手勢は今、一千騎ほどしかない。

 彼我の差は歴然であるが、平家からは御亭の死守を言い渡されている。


「いかがいたしましょう」

 かたわらに控えていた青年武将……河村義秀が、固い表情で尋ねた。

「御亭を捨てる」

 景親はあっさりと言い放った。

「なんですと?」

「より戦いやすい、河村へ軍を移す」


 松田御亭は、前に酒匂川、背後に松田山を配し、けして戦いにくい土地ではなかった。

 しかし兵数の圧倒的な差を考えれば、もうすこし地の利がほしい。

 河村は松田のすぐ東。

 山がちで、山上にじょうを構えれば屈指の要害となる。

 多勢の敵を迎え討つには適している。


 義秀はすぐに立ちあがり、侍所へ行軍を下知しに行った。

 莫大な資力を注いで造りあげた、この松田御亭の贅沢な寝殿のしつらえを、景親はむなしい気持ちで眺めあげた。

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