第64話 官軍、武田軍と交戦すること
対する武田軍は、充分に準備して、この時を待っていた。
いよいよ合戦前夜になると、『鼠』と呼ばれる隠密兵を敵軍内に送り込み、ひそかに弓弦を切って回らせた。
翌日の合戦には、みずから弱軍のふりをして逃走し、追いかけてくる官軍を、自軍に有利な
そして前後の
武田方の最前線では、加藤太光員、加藤次景廉の兄弟が、矢を放ち、太刀をふるい、血に飢えた悪鬼の如くに奮戦していた。
流浪の逃亡生活の末、ついに武田の食客となっていたかれらは、ここで石橋山での屈辱を存分にそそいだ。
「俣野はどこじゃッ、俣野はッ」
憎き仇とばかりに、景廉は敵将の姿を捜した。
……しかし五郎の姿は見つからなかった。
俣野五郎は闘いの玄人であった。
敗色を機敏に悟るや、たちまち戦場に背をむけ、逐電していた。
かれは一個の闘士としては、達人であった。
しかし、こまごまと戦略を巡らす人間ではなかった。
大略を見抜く目を、もたなかった。
残された橘遠茂は、加藤兄弟に無惨にも討ち取られ、三千の官軍が、わずか半日で消滅したのである。
◆
(全滅――)
松田御亭の景親は、この驚くべき敗報を受け、信じられない思いで身をふるわせた。
(
平家本軍、興津軍、そして景親軍――この三者の力が合わされば、頼朝にも太刀打ちできるはずであった。
それが、とんでもない計算違いが起こってしまった。
取り返しのつかない弟の愚行に、景親の
(落ち着け、落ち着くんだ……)
額に深い二本の縦皺を浮かべ、景親は湯飲みの茶を飲み干した。
高級なはずの茶も、渋く、すっかり冷め切っていた。
「殿ッ」
「何事か」
「頼朝です、頼朝が動き始めました。その数、およそ五千ッ」
(とうとう来たか)
鎌倉に腰を据えていた頼朝が、いよいよ西へ進撃を開始したのだ。
(武田と息を合わせているらしい……)
景親は、敏に悟った。
ほどなくして頼朝の尖兵は、この御亭にも襲い来るだろう。
景親の手勢は今、一千騎ほどしかない。
彼我の差は歴然であるが、平家からは御亭の死守を言い渡されている。
「いかがいたしましょう」
かたわらに控えていた青年武将……河村義秀が、固い表情で尋ねた。
「御亭を捨てる」
景親はあっさりと言い放った。
「なんですと?」
「より戦いやすい、河村へ軍を移す」
松田御亭は、前に酒匂川、背後に松田山を配し、けして戦いにくい土地ではなかった。
しかし兵数の圧倒的な差を考えれば、もうすこし地の利がほしい。
河村は松田のすぐ東。
山がちで、山上に
多勢の敵を迎え討つには適している。
義秀はすぐに立ちあがり、侍所へ行軍を下知しに行った。
莫大な資力を注いで造りあげた、この松田御亭の贅沢な寝殿のしつらえを、景親はむなしい気持ちで眺めあげた。
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