第63話 俣野五郎、興津に入ること

 さらにいまひとつ、景親に予想外の事件は、駿河するがの国でも起ころうとしていた。

 

 駿河の興津おきつという土地は、山が海に迫る要害の地で、古くから清見関きよみがせきというおおやけの関所が築かれている。

 もとより坂東の夷族の侵入を防ぐために造られた、京側の関所である。


 加えて、この辺りの海は清見潟きよみがたといって、都人の歌枕に詠まれるほど、風光明媚な土地柄である。

 歌に名高い「田子たごの浦」や、「三保みほの松原」も近い。

 おだやかに波寄せる砂浜から、東のかたを眺むれば、月の出とともに富士の白峰が輝いて、雲にもまごう妖しい煙を吐き出している姿が浮かびあがる。

 歌人たちに愛されるその風光を、平家の公達きんだちが好まぬはずがない。


 さらに加え、興津の名の由来となった女神、奥津島姫おきつしまひめは、平家が特に信仰する厳島いつくしま神社の祭神でもある。

 平家の御亭に、これほどふさわしい土地柄はなかった。


 景親の松田御亭と同じように、橘遠茂はこの興津御亭で、平家を迎え入れるための準備を進めていた。

 ここに来て、いよいよ武田源氏が動いたという一報を得るや、俣野五郎を呼んで軍議を開いた。


 俣野五郎。

 頬骨が出て、顔は無骨。

 頭は裾広がりで、扁平。

 首は太く、怒り肩。

 背はそれほど高くないが肉づきがよく、いかにも力士の体つきをしている。


(俣野五郎には、見下されたくない)

 ……遠茂はそう考え、偉そうに顎をあげ、腕を組んで言った。

「平家軍はすでに墨俣すのまたを越え、尾張国に入ったそうだ。あと十日の内には、この御亭に入られる。平家が来るのを待つのがよかろう」


 すると俣野五郎はいかにも小馬鹿にしたような顔をして、遠茂の貴公子然とした青白い顔を、鼻で笑った。

――意気地がないではないか、というのである。

「武田のクソどもなど、われわれだけで殲滅してしまえばよいではないか」

「なに?」

「こちらは三千。武田は二千にも及ばぬらしい。俺は石橋山で兵衛佐を叩き潰して勲功をあげたが、貴殿は無名よ。前もって武田を潰して名をあげておけば、平家本軍の貴殿を見る目が違ってくるだろう」


(無名……)

 侮辱に顔を真っ赤にして、遠茂は五郎の無骨な荒れ顔を睨みつけた。

「わが祖は天慶てんぎょうの世に将門まさかど純友すみともを平らげし、たちばなの遠保とおやすぞッ、無名などと言われる筋合いはないッ」

 高名なる先祖に対する劣等感、そして俣野五郎への劣等感――ふたつの劣等感に、たちまち火がついた。


 激怒して詰め寄る遠茂を、五郎はなだめすかした。

「それは申し訳ない。……なに、俺は貴殿のためを思って、言ったのだ。武田の首を手土産にすれば、俺たちの名はあがる。貴殿も偉大なる遠保公の再来とうたわれるだろう。平家も大喜びだ。褒賞は思いのままよ。貴殿も知ってのとおり、俺は闘いの玄人くろうと。いざ戦となれば全力をふるって貴殿をたすけるつもりなのだ」

 五郎は、戦にはやっていた。

 高名な兄、三郎景親のもとでではなく、今度は自分ひとりで自由に采配をふるい、大手柄を立ててみたかったのだ。


 遠茂は、考えこんだ。

 馬鹿にされたのは癪だったが、考えれば考えるほど五郎の言葉が魅力的な輝きを帯びて、次第に遠茂の心を支配していった。


 興津軍三千騎は突如として、興津御亭を出陣した。

 清見が関を後に、富士川を渡り、富士山の西麓を、甲斐国めざして北上した。

 むこうみずにも、姿も見えぬ敵にむかってどんどんと突き進んでいった。

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