第63話 俣野五郎、興津に入ること
さらにいまひとつ、景親に予想外の事件は、
駿河の
もとより坂東の夷族の侵入を防ぐために造られた、京側の関所である。
加えて、この辺りの海は
歌に名高い「
おだやかに波寄せる砂浜から、東の
歌人たちに愛されるその風光を、平家の
さらに加え、興津の名の由来となった女神、
平家の御亭に、これほどふさわしい土地柄はなかった。
景親の松田御亭と同じように、橘遠茂はこの興津御亭で、平家を迎え入れるための準備を進めていた。
ここに来て、いよいよ武田源氏が動いたという一報を得るや、俣野五郎を呼んで軍議を開いた。
俣野五郎。
頬骨が出て、顔は無骨。
頭は裾広がりで、扁平。
首は太く、怒り肩。
背はそれほど高くないが肉づきがよく、いかにも力士の体つきをしている。
(俣野五郎には、見下されたくない)
……遠茂はそう考え、偉そうに顎をあげ、腕を組んで言った。
「平家軍はすでに
すると俣野五郎はいかにも小馬鹿にしたような顔をして、遠茂の貴公子然とした青白い顔を、鼻で笑った。
――意気地がないではないか、というのである。
「武田のクソどもなど、われわれだけで殲滅してしまえばよいではないか」
「なに?」
「こちらは三千。武田は二千にも及ばぬらしい。俺は石橋山で兵衛佐を叩き潰して勲功をあげたが、貴殿は無名よ。前もって武田を潰して名をあげておけば、平家本軍の貴殿を見る目が違ってくるだろう」
(無名……)
侮辱に顔を真っ赤にして、遠茂は五郎の無骨な荒れ顔を睨みつけた。
「わが祖は
高名なる先祖に対する劣等感、そして俣野五郎への劣等感――ふたつの劣等感に、たちまち火がついた。
激怒して詰め寄る遠茂を、五郎は
「それは申し訳ない。……なに、俺は貴殿のためを思って、言ったのだ。武田の首を手土産にすれば、俺たちの名はあがる。貴殿も偉大なる遠保公の再来と
五郎は、戦に
高名な兄、三郎景親のもとでではなく、今度は自分ひとりで自由に采配をふるい、大手柄を立ててみたかったのだ。
遠茂は、考えこんだ。
馬鹿にされたのは癪だったが、考えれば考えるほど五郎の言葉が魅力的な輝きを帯びて、次第に遠茂の心を支配していった。
興津軍三千騎は突如として、興津御亭を出陣した。
清見が関を後に、富士川を渡り、富士山の西麓を、甲斐国めざして北上した。
むこうみずにも、姿も見えぬ敵にむかってどんどんと突き進んでいった。
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