第62話 景親、松田に退くこと




   二



 ――時は、しばし遡る。


 石橋山合戦の直後、景親軍は街道の要所要所を封鎖し、山中深く分け入り、頼朝の捜索をつづけたが、ついに発見には至らなかった。

 景親は合戦の詳細な報告書をしたため、新都福原に送った。


 合戦勝利を明記した文面の最後に、頼朝のことに触れた。

『……頼朝の行方は知れず。ただ、ある説に云わく、穴を掘り、埋められたりと。またある説に云わく、石を抱いて入水じゅすいすと。――巷説、多端――確かにその首を見ざるといえども、滅亡の条は、勿論か』


 報告を受けた平家は、これを「吉報」と鵜呑みにした。

 ただただ合戦の勝利に喜び、反逆の芽を摘みとった景親に褒賞を送った。


 すでに福原では、頼朝の生死いかんに関わらず、東国鎮撫の追討使の派遣が決まっていた。

 以仁王の令旨が各地に広まり、全国に動揺を巻き起こしていたためである。

 景親は坂東を預かる責任者として、その平家軍を接待せねばならない。

 ひと息ついている暇もなかった。


 平家の相模国での御所は、大住おおすみ郡の松田にある。

 その松田御亭ごていを整備し、風流な趣向を凝らしておく必要がある。

 莫大な数にふくれあがるだろう軍兵の糧食の問題、宿所の問題など、考えておかねばならない課題が山ほどある。

 平家を受け入れる準備に、景親は頭を悩ませた。

 加えて季節は秋、収穫の季節である。

 広大な大庭御厨の農事にも気を配らねばならない。

 景親は大忙しであった。





 この頃、平家被官の同輩、たちばなの遠茂とおもちから、緊急の援軍要請があった。

『甲斐国の源氏――武田氏が挙兵し、駿河するが国に攻め込もうとしている。援軍を送ってほしい』というのだ。

 橘は急ぎ、駿河と遠江とおとうみ……両国の兵を集めているところだという。

 景親はこの要請に応え、弟の俣野五郎を大将として、駿河の興津おきつに一軍を派遣した。


 ところがこの後、景親の背後でまったく予想だにせぬことが起こったのである。

 気がつけばいつのまにやら、死んだはずの頼朝が息を吹き返し、安房、上総、下総、武蔵……国々の兵を次々と糾合し、相模めざして西進しているという。

 嘘か誠か、その数、数千騎にのぼるらしい。

 房総の大領主、上総広常が頼朝方に変心したことで、他の領主たちが次々と雪崩なだれをうって源氏方になびき、坂東の勢力図は急変しつつあるのだという。


 ……たとえば武蔵むさし国は、平家の版図のはずであった。

 石橋山合戦の折、畠山はたけやまの重忠しげただは武蔵の武者五百騎を駆り、友軍として駆けつけてくれた。

 景親にとっては頼みの武将ですらあった。

 ところがその畠山が、今では、頼朝の先陣を勤めているという。

 畠山のみならず、武蔵の豪族たちが丸ごと源氏に寝返ったのだという。

 景親の衝撃は計り知れなかった。


 よほどの策師がついているのか、それとも頼朝の人物の力なのか……。

 頼朝の幕僚の面々を思い浮かべてみれば、兄の景義を含め、いずれも一筋縄ではいかぬ、老獪な人物ばかりであった。

 それらをまとめあげている頼朝というのは、やはりいずれにせよ、凡愚の将ではあるまい。


 頼朝の先陣として現れた畠山軍が、またたくまに鵠沼くげぬま郷を制圧すると、景親は、すぐさま大庭を捨てる決意をした。

 兄景義に後事を任せ、松田御亭へと退いた。

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