第56話 頼朝、海を渡ること

 景親軍三千騎は、伊豆から駆けつけた伊東祐親の三百騎と合流し、頼朝を捕らえるため、広大な山中をしらみつぶしに捜索した。


 頼朝は四日間、山中を逃げ惑い、あちらこちらに潜伏した。

 そうして身を隠しつつ、景親方の虚をついて、土肥郷の真鶴まなづるから、三浦半島へむけて出航する計画だった。


 二十八日――

 頼朝一党は荒れ狂う風雨にまぎれ、敵の占領下にある土肥郷に潜入した。

 前の晩から台風が来ていた。

 ずぶ濡れになりながら海沿いの隠れ家に潜りこむと、土肥実平の妻が一行を迎えてくれた。

 髪を縛り、腰布をして、賤女に身をやつしている。

 賢く勇敢な女で、みずからも身を隠しつつ、周囲の情報を集めたり、山中の一行に食糧を届けさせたり、甲斐甲斐しく働いてくれていた。


 ……雑仕女たちに頼朝の世話をさせながら、妻女は口早に三浦軍の動向を伝えた。


 二十三日夕刻、石橋山の北東、酒匂さかわ川東岸まで押し寄せていた三浦軍は、増水のため、ついに川を渡ることができず。

 頼朝軍の敗北を確認した後、三浦半島の拠点、衣笠きぬがさ城へ退却。


 二十七日朝、景親軍は、衣笠城を襲撃。

 長老三浦みうらの大介おおすけ義明よしあきおとりとなって討死。

 三浦軍は海を渡り、房総半島の安房あわ国に逃れたとのことであった。


 三浦大介義明という譜代の忠臣の死を聞いても、頼朝はさほど驚かなかった。

 これまでに多くのともがらの死を見てきた頼朝の心は、この悲報に驚かないほど鈍感になっていた。

 ……ただ、疲れ、渇き切っていた。


「つい先日、北条殿と岡崎殿がこちらに参られました」

 と、妻女が言った。

「なに、舅殿しゅうとどのと悪四郎が? 生きていたか……」

 頼朝は青ざめた顔に、すこしばかり生色を取り戻した。

「して、今はいずこに?」

「昨日、夜明け前に船を出しました。おそらくは三浦へ」

「一足違いであったか」


「三浦は敵方に占拠されているそうです。岡崎殿の船も情勢を見て、安房に向かわれるでしょう。安房にも三浦の領地がござりますから」

「われわれも安房へ渡ろう」

「ご注意を……敵方の舟がうろつきまわっています」


 夕方になって風雨が静まり、雲も切れてきた。

 台風の名残に、海はまだ荒れていたものの、心焦る頼朝らは深夜の闇に紛れ、星明りを頼りに船出した。


 襲いかかる暗黒の荒波に、天地は上下を忘れ、小舟はよるべもない木の葉のよう。

 巨大な波濤はとうがそのあぎとを思うがままに打ち鳴らし、すきあらば小舟を粉々に噛み砕かんとした。


 人々は頭から冷水を浴びせられ、無理やり潮を呑まされ、宙吊りにされ、ふりまわされ……もう駄目か……いよいよもって一命の終わりか……いつ果てるともわからぬ絶望と恐怖にさいなまれつづけた。

 まごうことなき、拷問であった。


 ――限界寸前、うなきしむ板底を必死につかみ止めながら、頼朝は死に物狂いで、経文を叫びつづけた。

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