第57話 頼朝、安房に着くこと
三
明け方になって、ようやく波も静まってきた。
空は次第に白みゆき、はるか南の水平線の上に、ひときわ明るい星が、波をくぐって輝きはじめた。
「あの星は?」
「デェナン
ひからびた手を
「デェナン?」
「……デェナンは、遠い沖あいの海のことですじゃ」
漁師の言葉に、実平が説明を加えた。
「確か
「大難とは……、不吉な……」
頼朝は、今にも消え入りそうな、げっそりとした顔つきで、弱々しく呟いた。
「ですが、すぐに沈みますですじゃ。夜明けとともに……」
年老いた漁夫は教えた。
そのとおり、目指す東の空に朝日が昇ると、大難星の胸を刺すような
◆
その日のうちに、頼朝は房総半島の南、安房国の岸辺へと、瀕死の態で辿り着いた。
舟から降りて浅瀬に立つと、喉の奥から異物がこみあげてきて、思わず身をふたつに折った。
ゑうゑうと、胃が
ようやく顔をあげた時、頼朝は身も心も、まったくのからっぽだった。
過去の苦しみのすべてが、体から流れ去ったような気がした。
かろやかな波音が膝のあたりに心地よく戯れてくる。
昨日までの嵐が嘘のように、空は蒼く晴れわたり、遠い沖のほうまでも生き生きとしたきらめきに輝いていた。
「佐殿ーッッ」
呼ばれてふり返れば、すぐ目前に、緑あふれる大地が広がっていた。
砂浜を、多くの兵が
三浦の旗印と、源氏の白旗とが、力強くはためいていた。
石橋山を落ち延びた武者たちの姿も見える。
みな、味方だった。
そのほとんどが無傷であった。
飛びあがって叫んでいるのは悪四郎だった。
まったく、信じられない思いがした。
(生き延びた……)
なまなましい
かれははじめ、ちいさく笑い、やがてそれが、身もだえするほどの大笑に変わった。
そばにいた藤九郎は、主が発狂したかと恐れた。
悪四郎が海に飛び込んで来ると、頼朝はまた笑った。
そして渚で抱擁しあうや、今度はふたりして大泣きした。
◆
潮が変った。
新生した頼朝軍は、敵対する軍勢をうち破りつつ、房総半島を北上した。
頼朝軍は例によって
「平家を追討すべし」「褒賞を期するべし」
……これに反応し、不満を溜め込んだ地元の豪族たちが、平家に反旗を翻し、頼朝の味方に駆けつけてきた。
軍勢は雪玉の転がるように、日増しに大きくなっていった。
下総の国府では、千葉氏に手厚く迎えられた。
千葉常胤の見知った老顔にまみえた時、頼朝の安堵ははなはだ大きかった。
齢六十三になる古つわものは、こう献言した。
「相模の鎌倉には、源家相伝の地所がございます。三方を山、一方を海に守られた天然の要害で、製鉄も盛んです。
かつての将軍たちは彼の地を本拠として、軍士を集め、数々の大戦に挑みました。鎌倉に府を構える事こそ、急務かと」
――これが以後、頼朝軍の指針となった。
※ 大難星 = カノープス(りゅうこつ座α星)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます