第57話 頼朝、安房に着くこと




   三



 明け方になって、ようやく波も静まってきた。

 空は次第に白みゆき、はるか南の水平線の上に、ひときわ明るい星が、波をくぐって輝きはじめた。


「あの星は?」

「デェナンぼしですじゃ」

 ひからびた手を船端ふなばたに置いた老漁夫が、ッと星を見つめながら答えた。

「デェナン?」

「……デェナンは、遠い沖あいの海のことですじゃ」


 漁師の言葉に、実平が説明を加えた。

「確か漢字まなで、大きな災難の星と書いて、『大難星』でございます。難は、なだのことでしょうか……」

「大難とは……、不吉な……」

 頼朝は、今にも消え入りそうな、げっそりとした顔つきで、弱々しく呟いた。

「ですが、すぐに沈みますですじゃ。夜明けとともに……」

 年老いた漁夫は教えた。

 そのとおり、目指す東の空に朝日が昇ると、大難星の胸を刺すような禍々まがまがしい輝きは、波の下に見えなくなった。





 その日のうちに、頼朝は房総半島の南、安房国の岸辺へと、瀕死の態で辿り着いた。

 舟から降りて浅瀬に立つと、喉の奥から異物がこみあげてきて、思わず身をふたつに折った。

 ゑうゑうと、胃がむなしくなるまで波の上に吐瀉としゃしつづけた。


 ようやく顔をあげた時、頼朝は身も心も、まったくのからっぽだった。

 過去の苦しみのすべてが、体から流れ去ったような気がした。

 かろやかな波音が膝のあたりに心地よく戯れてくる。

 昨日までの嵐が嘘のように、空は蒼く晴れわたり、遠い沖のほうまでも生き生きとしたきらめきに輝いていた。


「佐殿ーッッ」

 呼ばれてふり返れば、すぐ目前に、緑あふれる大地が広がっていた。

 砂浜を、多くの兵がうずめていた。

 三浦の旗印と、源氏の白旗とが、力強くはためいていた。

 石橋山を落ち延びた武者たちの姿も見える。

 みな、味方だった。

 そのほとんどが無傷であった。

 飛びあがって叫んでいるのは悪四郎だった。

 まったく、信じられない思いがした。


(生き延びた……)

 なまなましいせいの衝動が、身のうちから歓喜の大波となって押し寄せてきた。

 かれははじめ、ちいさく笑い、やがてそれが、身もだえするほどの大笑に変わった。

 そばにいた藤九郎は、主が発狂したかと恐れた。

 悪四郎が海に飛び込んで来ると、頼朝はまた笑った。

 そして渚で抱擁しあうや、今度はふたりして大泣きした。





 潮が変った。

 新生した頼朝軍は、敵対する軍勢をうち破りつつ、房総半島を北上した。


 頼朝軍は例によって以仁王もちひとおう令旨りょうじ旗印はたじるしにかかげ、その内容を広く触れ回った。

「平家を追討すべし」「褒賞を期するべし」

 ……これに反応し、不満を溜め込んだ地元の豪族たちが、平家に反旗を翻し、頼朝の味方に駆けつけてきた。

 軍勢は雪玉の転がるように、日増しに大きくなっていった。


 下総の国府では、千葉氏に手厚く迎えられた。

 千葉常胤の見知った老顔にまみえた時、頼朝の安堵ははなはだ大きかった。

 齢六十三になる古つわものは、こう献言した。


「相模の鎌倉には、源家相伝の地所がございます。三方を山、一方を海に守られた天然の要害で、製鉄も盛んです。

 かつての将軍たちは彼の地を本拠として、軍士を集め、数々の大戦に挑みました。鎌倉に府を構える事こそ、急務かと」

 ――これが以後、頼朝軍の指針となった。






※ 大難星 = カノープス(りゅうこつ座α星)

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