第55話 頼朝、観音像を祀ること
「佐殿、ここにおいででしたか――」
藤九郎と土肥実平の一党がようやく
「そなたらも無事であったか」
「ご無事でなによりでござります。行きましょう、景親の本軍が迫っております」
「うむ」
頼朝は雑色に手伝わせ、髻を結い直した。
岩窟に安置したばかりの観音像にむかって、言い尽くせぬ感謝をこめて礼拝した後、その場を立ち去ろうとした。
「佐殿、御持仏をお忘れですぞ」
すかさず注意した実平に、頼朝はうなずいた。
「よいのだ。ここに置いてゆく」
「ハ……?」
「私が三歳の時、乳母が
すると乳母は霊夢を授かった。霊夢とともに忽然と、このちいさな像が現われたのだそうだ。私は乳母がくれたこの像を大切に敬い、自分の髻に入れて、肌身離さず持ち歩いてきた。
観音の縁日である十八日に、私が放生会を行うのも、この信仰のゆえだ」
「左様に大切な観音像を、なにゆえ置き去りにされるのです?」
「この岩屋は観音像を祀るにふさわしいと思うてな。わかるか?」
「ハ……」
言われて実平は、にわかに半眼を閉ざし、深く息を吸いこんだ。
「……確かに、ご神気に満ちているような、そんな気がいたします。背筋が、すうと、軽くなるような……」
頼朝は驚いて、今はじめて実平に出会ったかのような顔で、かれのことを見つめた。
実平は、赤面した。
「……柄にもないことを、申しましたな」
「いや」
頼朝は、心地よげに微笑んだ。
「坂東武者というのは、侮れぬな」
言ってから、先ほどの説明をつづけた。
「観音信仰はやさしすぎて、武家の棟梁には似合わぬ、と思うてな。首を取られた時、髻のなかの観音像を見た平家方の武者たちは、きっと私を馬鹿にするだろう。意外に軟弱な男だ、とな。先ほど首をとられそうになって、私はそのことに気づいたのさ」
「なんですと? 首を?」
実平たちは吃驚した。
「大事ない。行こう」
一行は岩窟を出て、歩きだした。
――いつしか、頭上の雲は切れていた。
落武者たちは、自分たちの姿が白日のもとにさらされることに無意識の不安をおぼえたが、裏腹に、あたりの光景はいっそう美しく冴え渡ってきた。
青空のひらけた樹上から、水滴がきらきらとこぼれおちてくる。
差しこむ光が、苔むす岩肌に反射して、あたり一面が明るい緑色に染まってゆく。
「佐殿、ご覧ください」
慌てた様子で、藤九郎が頼朝の袖を引いた。
頼朝がふり返ると、銀色の観音像が見送る
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