第54話 景時、頼朝に迫ること

 ――この追想は、一瞬だった。


 景時はわれに返り、初めて接した頼朝という人物を、興味をもってまじまじと見つめた。

(このような山中で偶然に出会うとは、千載一遇の好機か。今、目の前のこの首を刎ねれば、平家から莫大な恩賞をせしめることができる)


 坂東に、都に、「兵衛佐頼朝を討った男、梶原平三景時」の名声が、口々に広まっていく様子が心に浮かび、胸には興奮さえ湧きあがってくる。

 『七日のうちには佐殿は滅びましょうぞ』……そうかれが予言した、今日がまさにその、七日目であった。

 景時はさらに一歩、間合いを詰めた。


 一方、頼朝はといえば、力尽き、内心、すべてをあきらめてしまっていた。

(ここまでか……)

 突如目の前に現われたこの梶原という男は、まなざしのなかに剣を持っている。

 いよいよ最期の刻がやってきた。

 この男が、自分の命を引き受けることになるのだろう。

 腰刀を抜き、烏帽子を剥ぎ取り、もとどりを掴み、研ぎ澄まされた刃で首の肉を掻き切るのだろう。


 切られた首は塩漬けにされて、都へ送られるのだろうか。……それとも、酒漬けであろうか。

(塩でうずめられたほうが清浄な気がするが……いや、悪酔わるよいして流離さすらいつづけたようなこの人生……末路は酒こそがふさわしいか……)

 考えるともなしにそんなことにまで思い及んだ一瞬のなか、ふと頼朝の心に、さわやかに薫る柳の風が吹き、桜花を透かした美しい光がゆらめいた。

 初めて宮中へ伺候した少年の日のときめきが、みやびやかな香の匂いとともに、心苦しいほど切なく甦ってきた。

(まさか、あの都へ……首となって帰ろうとは……)


 ――窮地であった。


 にもかかわらず、どういうわけか心は平静であった。

 それは心安らぐばかりの、このいわやの神気のおかげであったのかもしれない。

 清らかで人知れぬこの場所は、自分のつい住処すみかにふさわしいと、頼朝は考えた。


「梶原平三……鎌倉一族か」

「よくぞ、ご存知で……」

「大庭平太からそなたの名、聞き及んでいる。よき武者ぶりだ。名にしおう鎌倉権五郎景正の末裔とあらば文句はない。そなたに、わが首、賜る」

 落ち着き払って言う頼朝の瞳に、景時は吸い込まれるように惹きこまれていった。


 頼朝の目には、怖れの色は微塵もなかった。

 ただ、景時を真っ直ぐに、おだやかに見据えている。


(落ちついている……)

 次第に景時は、不可解な錯覚に陥っていった。

 まるで頼朝が大将軍で、自分が拝顔も許されぬ臣下であるかのような気が、しきりにしてくるのである。

 頼朝のほうから、圧倒的な光が押し寄せてくる。

 それは不快なものではなく、心地よい光だった。

 景時は無理に、目を逸らした。


 ややおいて景時は、自分でもまったく思いがけないことを口にした。

「静かな、美しい場所でござりますな」

「わかるか?」

 と頼朝は、まなこを見ひらいた。「左様。心が洗われる」

 ふたりはしばしこの場の状況も忘れ、歌会ででも出会ったような気分で、潤いにみちた岩窟の神気をともに呼吸していた。


 ――ふいに景時はひざまずき、頼朝を驚かせた。


「お救い申しましょう」

 かれは低く囁いた。

 不意をつかれた頼朝は、ふるえる声に戸惑いを隠せなかった。

「……なんと申した?」


 景時は、言った。

「大庭三郎殿の本軍は、もはや目と鼻の先です。私はこの場所を教えず、かれらを別の場所へ導きましょう。ここにいる者たちは皆、わが腹心。私が望まぬかぎり、このこと、けして口外せぬでしょう。佐殿、あなたに運があれば、逃げおおせられるでしょう」

 頼朝は呆れるような強い意外の思いに打たれ、大胆にも景時のまなこをのぞきこみ、その真意を確かめようとした。

 思いがけなくそこに、猪武者ではない、教養深い人の目があった。


 景時は立ちあがると、目深に一礼し、背をむけた。

 なおも半信半疑、ふるえながら頼朝は尋ねた。

「景時、何ゆえ助ける」


 景時は、立ち止まった。

「勘でございます」

 呟きながら、悠々、立ち去った。

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