第53話 景時、大魚を放つこと
景時は、かれらしく筋道を立ててこれらの事を説いたが、そうしたことは今更取り立てて言うまでもない、当たり前のことばかりであった。
「それでも、佐殿は勝つよ」
……説明をまったく聞いていなかったかのように景義が言うので、景時はだんだんと腹がたってきた。
「ならば貴兄にお聞き申そう。いったいぜんたい、何をもって、佐殿が勝つと言うのか」
景義は、うむ、と自信たっぷりにうなずいた。
「『勘』じゃ」
――それを聞いて、景時にはこの老人と話す気が失せてきた。
「お話しになりませぬ……」
「いや、聞くがいい。わしは源家のためではなく、わし自身のためでもなく、和殿のために話しておる」
いつもは先達とも兄とも慕うこの景義が、まったく狂っているのか、それとも理知を語っているのか、景時にはわからなかった。
景義は言った。
「和殿は『論』の巧者じゃ。しかし、『勘』を使ったことはあるか? 日々、鍛えておるか?」
「『勘』を鍛える? 考えたこともございませぬな」
「ならば和殿は『勘』について、まったく無知だということになる。『論』とはたかだか人知の
だが、この世は無法よ。人知をはるかに超えるほど、広い。――広く、深く、大きい。人は『論』のみにて動けば、ついには道を踏み誤る。『勘』とは人知を超えて、天意を知る
「佐殿が、ついには大成なさると申されるか」
「このわしの、長年鍛えた『勘』が告げておる。佐殿は、人物よ。東国をまとめあげる器量を備えていらっしゃる」
「ふうむ……」
景時は遠く、視線を泳がせた。
眼前には青い海原が茫々と広がり、その場所は、渦巻く風、連なる雲たちの、自由なる遊び場であった。
「ひとつ、遊びをしよう」
景義はニヤリ笑って、郎党に合図をした。
郎党が用意したのは、三種の刺身である。
見栄えよく綺麗に、みっつの
「アワビ、シイラ、カツオ――これらみっつの刺身を、すべて和殿に献上いたそう。どれも今獲ったばかり、新鮮じゃぞ。いずれを真っ先に食べるか、口には出さず、自分のなかだけで、心に決めよ」
「……決めました」
景時の無表情を、まなざし鋭く見つめていた景義は次の瞬間、にやりと笑みを含み、カツオの折敷を押し出した。
「和殿が心に決めたのは、これじゃろう」
景時の両目が細まり、ひそかな動揺をみせた。
「なぜわかりました?」
「ふふ、『勘』じゃよ」
「いや、しばしお待ちを……」
景時は、『論』をめぐらせた。「平太殿とは幼少の頃からの間柄。わしの好みも熟知しておられる。わしが一番好きな刺身はシイラ。好みのものを最後にとっておくわしの性癖もご存知のはず」
「確かに。シイラは最後まで残しておくであろう。では残りのふたつ、アワビとカツオはどう見分ける? そこまで和殿の好みは熟知しておらぬぞ」
「目の動きを盗んだか……あるいは手の動き……利き腕のことも考えられたか……」
「ハハハ、まあそう堅苦しく考えなさるな。論では時間がかかり、迷いもする。勘を使えば、一瞬じゃ。戦場ではその一瞬が、生死を分ける。心のなかにひらめく一瞬の光をつかみ取る。これが勘じゃよ」
「わかりません。勘とは……?」
「心に、光を感じる感覚じゃ。そこには、心地よさや楽しさ、ほっとするような、快感がある。逆に、重さや暗さを感じるとき、それは勘ではない。単なる不安じゃよ。不安を信じて進むなかれ。自分の心のうちにひらめく、光を信じて進むのじゃ」
「……」
景時は考え込み、景義は居住まいを正した。
「最後に、もうひとつだけ、言うておこう。梶原の当主の平次殿……つまり和殿の兄上は当然、平家方につくよ。それを考えれば、平三殿、これは和殿にとって絶好の好機。
源家についてくれずともよい。ただ、戦に関わらず、傍観していてくださればよい。さすれば源家の世が来た時、和殿は梶原の主となる。そのことをとくと考えてみて、損はあるまい」
さて、と言って、老人は帰り支度を始めた。
自分の舟に移ろうとして、ふと、先の大甕に目を止めた。
「このキハダ、どうする?」
「どうするとは?
すると景義は、諭した。
「『その日獲れた一番大きな獲物は、海に返す』のが、しきたり。聞いたことは、ござるかな?」
……確かに……そういう慣習には、聞き覚えがあった。
景時は、長らくそのことを忘れていた。
「放せ」
景時が言うと、郎党たちは大甕を海にひっくり返した。
大魚は身をくねらせながら、紺碧の海中に消えて行った。
「魚は人のものではない。海のもの。海の神に、感謝を捧げねばならぬでのう」
大魚の行方を見つめながら、景義は仙人じみた声で、しずかに言った。
「お教え、いたみいります」
景時は、素直に頭を下げた。
……意外に、さっぱりした男であった。
「ふぉふぉ、和殿は、さすがの男よ。ちいさなことに、こだわらぬ。器が違うの」
景義は大魚の代わりに……と言って、好物のシイラをはじめ、自分たちが獲った海の幸を、山ほど置いていった。
景時にとって、幼い頃から景義は、頼りになる、強くてやさしい兄貴分だった。
かれはそのことを、急に胸に思い出していた。
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