第51話 頼朝、不思議の岩窟のこと




   二



 混戦のなかを逃げ惑っているうちに、気がつけば頼朝は、御家人や雑色たちとはぐれていた。


(またか)

 と、かれは思った。

 二十年前の平治合戦の折も、自分だけが父や兄の一行からはぐれ、猛吹雪のなかをさまよった経験がある。

 死を覚悟したあの時、かれはまだ十三歳だった。

(けれど、そうしてはぐれたおかげで、皮肉なことに、今でも生きている。……そう考えれば、はぐれるのは悪いことではあるまい。大丈夫だ。大丈夫だ)

 頼朝は懸命に自分を励ました。


 次第に雨も弱まり、ついには降りやんだ。

 鬱蒼うっそうとした山中に、名もしれぬ鳥ばかりが鳴く。

 深い熊笹の茂みを掻き分けながら斜面を登っていくと、突然、水気をふくんだ爽やかな風のふく場所に出た。


 頼朝を正面から迎えたのは、見あげるばかりに巨大な岩石であった。

 岩石は、山肌になかばうずまりつつそびえていた。

 岩の下半分は大きくえぐれ、暗い岩窟となっている。

 岩窟の入口には水流がしたたり落ちて、一見すれば、まるで氷の柱が直立しているかのようであった。

 頼朝はおそるおそる、この奇景に近づいた。


 巨岩の肌はこけに覆いつくされ、樹々が抱きつくようにしてしっかりと根を張り、枝や幹を水平に張りだしている。

 下からのぞきあげると、巨岩はまるで垂直の森である。

 水流はその森のなかを、岩を削って一直線にしたたり落ちてくる。

 そして白糸を垂らすように地に落ちて、泉を穿うがち、あたりに星屑ほしくずのようなしずくを撒き散らしながら、絶えまなく水玉を弾けさせている。

 千々に砕ける水音が、岩窟のなかにふくらかにひびき、天然の楽器のように、美しい調べを奏でていた。


 頼朝はその光景の美しさに見惚みとれ、水音に聞きれた。

 おそるおそる水をすくいあげ、唇をつけた。

 うるおいが、喉を、心を、甘く満たす。

 澄みきった水音が、かれの心に打ち戯れる。

 羽音もなく、どこからか翡翠色の蝶が飛んできて、光の珠をつらねる水柱のまわりを、螺旋を描きながら舞いあがっていった。

(ああ、なんと壮麗な……)

 頼朝は泉のほとりに座し、瞑目した。

 かれはもともと風流人であった。

 命からがらの逃避行のさなかであることも思わず忘れ、神仏に祈りを捧げた。

 いつまでも心酔いながら、その不思議の岩窟の神気を堪能していた。


 ――だが、安らぎが許されようはずもない。

 突如として背後に、朽ち葉を踏み荒らす乱暴な音が響きわたった。

 ゆっくりとふり返った頼朝の前に、筒袖つつそで姿の無骨な武者たちが四、五人、それぞれ太刀の柄に手をかけながら現れた。


 頼朝が無言でいると、この闖入者たちはじわりじわりと近づき、なかでも一番偉そうな者が、野太い声を張りあげた。

「私は、坂東御後見、大庭三郎殿麾下きか梶原かじわら平三へいざ景時かげとき。貴殿の名をおうかがいしたい」


 頼朝はうなずき、堂々と、なんぴととも聞き違えようのない一人いちにんの名を告げた。

さきの右兵衛うひょうえ権佐ごんのすけ源三郎みなもとのさぶろう、頼朝」

 ふたりの視線が、二匹の蛇のごとくに絡みあった。

 まさにこの時、梶原景時の胸には、様々の思いが去来していた。

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