第44話 佐奈田与一、先陣を切ること

 北方の空を黒く分かつ酒匂川の黒煙を、景親軍もまた、その目で見た。

 すでに斥侯うかみが、三浦軍の来襲を告げていた。


 景親は即座に幕下を召集した。

「三浦が動いた。……敵方はなかなかに、降伏の勧告を聞き入れぬな」

「弁を尽くして呼びかけてはおりますが、まったく応ずる気配を見せませぬ」

「意固地よ……」


 河村義秀が聡明な目を光らせ、献言した。

「今日のような曇天では、月の光も見えませぬ。頼朝軍と夜戦となれば、敵味方の見分けがつかなくなります。合戦を仕掛けるのは、明日までお待ちになられるのがよろしいかと……」


「三浦は武辺の家ぞ」

 と、景親はこちらも思慮深い目をむけ、義秀の若い目を見返した。

「夜明けを待てば、三浦は必ずここまで攻めて来る。腹背に敵を受けては、万一の事もある。攻めるならば、完全に暗くなる前だ」

「暗くなる前……」

 一瞬考えた義秀に、景親は断言した。

「――をおいて他、あるまい」

 義秀は敬服して一礼し、全軍に攻撃準備を命じた。


 景親軍三千は一斉にときの声をあげ、陣太鼓を打ち鳴らした。

 頼朝軍もまたこれに負けじと声を張りあげ、足を踏み鳴らし、弓を打ち鳴らした。

 戦いの異様なる大音声だいおんじょうは山谷をかけめぐり、辺り一帯にこだまし、その様子はまるで海が沸き立ち、大地が苦しみ悶えるかのようであった。





 ぽつり、ぽつり、こらえ泣きのような雨が、佐奈田与一の頬を濡らしている。

 長覆輪ながふくりんの太刀鞘も濡れてつやめく。

 左手には重籐の大弓、右手には夕貌の手綱を握り、せなには頼朝軍のすべてを背負しょっている。


 敵軍の先頭では総大将景親みずからが、頼朝軍の非を論じ、降伏の最後の機会を与えようとしている。

 頼朝軍からは北条時政が名乗りをあげ、景親の非を論ずる。

 そのどちらの声をも、与一は聞いてはいない。

 鷲のように鋭い目が狙うのは、敵将大庭景親の首、ただひとつ。


「佐奈田のっ」

 戦機は今と、時政が叫んだ。

「応ッ」

 与一は三千の敵騎を前に、微塵も臆すことなく、見事な声をはりあげた。


「音にも聞くらん、目にも見よ。聞こえ高き八幡太郎義家殿につき従い、奥州合戦にて金沢のたてをみンごと落とした三浦平太郎為継が孫、三浦大介義明が末弟、岡崎悪四郎義実が嫡子、佐奈田与一義忠。先陣つかまつるッ」


 同時に、与一とその麾下十五騎は、まるで一本の激矢のごとく、景親めがけて飛び出した。

 敵勢が景親を守るようにして取り囲むのが、与一の目に見えた。

 頭上から敵の矢がふりそそぐ。

 グワンと一撃の雷鳴が轟いた時、雨はたちまちに海をひっくり返したような土砂降りへと変わり、鎧兜にのしかかった。


 与一はふりむかずに叫んだ。

「家安、離れるな」

「承知ィッ」

 沛然はいぜんたる驟雨しゅううに、地面からは雨煙が濛々もうもうと立ちあがり、まるで周囲に幕を張り巡らせたようである。

 与一は景親の姿を見失った。

 だが逆に、敵も与一の姿を見失った。


 突如として、与一は敵騎の目前に躍り出ていた。

 咄嗟に腰刀を抜き、馬ごと体当たりしながら、敵の首を刺し貫いた。

(違う、景親ではない)

 相手は絶命し、馬上から崩れ、夕貌の鼻先に転がり落ちた。

 ――その途端、大馬は吃驚し、一声高くいななやくや、われを失って暴れ狂いはじめたのである。

 慌てて血刀を鞘に戻した与一は、懸命に手綱を引きしめた。

「どうッ、どうどうッッ」

 滅多矢鱈に走りつづける夕貌は、とどまるところを知らない。

 与一は必死に狂馬を制そうとしたが、ついには手綱さえもが千切れ飛び、あやうく落馬しかけた。

 すんでのところでくつわの金物をじかに掴み、ようやくのこと、体勢を立て直した。

 ――その時だった。


「そのクソ派手な鎧と馬、佐奈田与一かッ」

 背後から激しく圧迫してくる武者がいる。

 与一は苛立たしげに、ふり返って叫んだ。

「誰ぞッ」

「俣野五郎景久」

(アッ)

 稲光がひらめいた。

 瞬間、油火に隈どられた景義と次郎のやさしげな面影が、与一の脳裏をよぎり去った。

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