第44話 佐奈田与一、先陣を切ること
北方の空を黒く分かつ酒匂川の黒煙を、景親軍もまた、その目で見た。
すでに
景親は即座に幕下を召集した。
「三浦が動いた。……敵方はなかなかに、降伏の勧告を聞き入れぬな」
「弁を尽くして呼びかけてはおりますが、まったく応ずる気配を見せませぬ」
「意固地よ……」
河村義秀が聡明な目を光らせ、献言した。
「今日のような曇天では、月の光も見えませぬ。頼朝軍と夜戦となれば、敵味方の見分けがつかなくなります。合戦を仕掛けるのは、明日までお待ちになられるのがよろしいかと……」
「三浦は武辺の家ぞ」
と、景親はこちらも思慮深い目をむけ、義秀の若い目を見返した。
「夜明けを待てば、三浦は必ずここまで攻めて来る。腹背に敵を受けては、万一の事もある。攻めるならば、完全に暗くなる前だ」
「暗くなる前……」
一瞬考えた義秀に、景親は断言した。
「――ただ今をおいて他、あるまい」
義秀は敬服して一礼し、全軍に攻撃準備を命じた。
景親軍三千は一斉に
頼朝軍もまたこれに負けじと声を張りあげ、足を踏み鳴らし、弓を打ち鳴らした。
戦いの異様なる
◆
ぽつり、ぽつり、こらえ泣きのような雨が、佐奈田与一の頬を濡らしている。
左手には重籐の大弓、右手には夕貌の手綱を握り、
敵軍の先頭では総大将景親みずからが、頼朝軍の非を論じ、降伏の最後の機会を与えようとしている。
頼朝軍からは北条時政が名乗りをあげ、景親の非を論ずる。
そのどちらの声をも、与一は聞いてはいない。
鷲のように鋭い目が狙うのは、敵将大庭景親の首、ただひとつ。
「佐奈田のっ」
戦機は今と、時政が叫んだ。
「応ッ」
与一は三千の敵騎を前に、微塵も臆すことなく、見事な声をはりあげた。
「音にも聞くらん、目にも見よ。聞こえ高き八幡太郎義家殿につき従い、奥州合戦にて金沢の
同時に、与一とその麾下十五騎は、まるで一本の激矢のごとく、景親めがけて飛び出した。
敵勢が景親を守るようにして取り囲むのが、与一の目に見えた。
頭上から敵の矢がふりそそぐ。
グワンと一撃の雷鳴が轟いた時、雨はたちまちに海をひっくり返したような土砂降りへと変わり、鎧兜にのしかかった。
与一はふりむかずに叫んだ。
「家安、離れるな」
「承知ィッ」
与一は景親の姿を見失った。
だが逆に、敵も与一の姿を見失った。
突如として、与一は敵騎の目前に躍り出ていた。
咄嗟に腰刀を抜き、馬ごと体当たりしながら、敵の首を刺し貫いた。
(違う、景親ではない)
相手は絶命し、馬上から崩れ、夕貌の鼻先に転がり落ちた。
――その途端、大馬は吃驚し、一声高くいななやくや、われを失って暴れ狂いはじめたのである。
慌てて血刀を鞘に戻した与一は、懸命に手綱を引きしめた。
「どうッ、どうどうッッ」
滅多矢鱈に走りつづける夕貌は、
与一は必死に狂馬を制そうとしたが、ついには手綱さえもが千切れ飛び、あやうく落馬しかけた。
すんでのところで
――その時だった。
「そのクソ派手な鎧と馬、佐奈田与一かッ」
背後から激しく圧迫してくる武者がいる。
与一は苛立たしげに、ふり返って叫んだ。
「誰ぞッ」
「俣野五郎景久」
(アッ)
稲光がひらめいた。
瞬間、油火に隈どられた景義と次郎のやさしげな面影が、与一の脳裏をよぎり去った。
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