第43話 戦の黒煙があがること




   三



 息詰まるような曇天が、夜闇へと沈みつつある。

「む? なんだ?」

 軍中が、にわかに騒がしくなっている。

「与一殿、あれを」

 宗時が北方の空をゆび指した。


 そこには、雲を突き通さん勢いで、禍々しい黒煙が立ちあがっていた。

北東うしとら、八里ほど……酒匂川のあたりか……」

「戦の煙でしょうか?」

「間違いない。あのあたりには鎌倉一族柳下やぎしたたてがある。そこを急襲したのだ」

「ついに始まったか……」


 遠方、高々とあがった黒煙に目を細めた与一は、近くにいた三浦一族の平佐古為重に呼びかけた。

「おい、三浦だ。来たな」

 口をへの字に結んだ為重は、言うまでもない、といった表情でうなずいた。

 足下あしもとには激しい波濤はとうが、黒々と渦巻いている。

 恐ろしいほどに低く轟いてくるのは、海鳴りであろうか。


 そそり立つ斜面を踏みつけて、そこには頼朝の若武者たちが居並んでいた。

 北条三郎宗時、小四郎義時。

 宇佐美正光、実正。

 その異父兄である宇佐美祐茂すけもち

 年少ながら勇敢な、工藤党の田代たしろ冠者かじゃ

 駿河の鮫島兄弟。

 相模の中村景平、盛平兄弟。

 土肥、土谷の兄弟たち。

 与一の弟、義清。

 豪傑ぞろいの佐々木四兄弟――

 間近に迫る戦の炎に、つわものたちは熱く血をたぎらせ、激しく武者ぶるいした。


 かれらは背後の高みをふり返った。

 すべての視線が、ひとりの男のもとに集まった。

 そこには真新しい火縅ひおどしの大鎧をまとい、白銀しろがねの宝刀を無造作に肩に担いだ、加藤景廉がいた。


 景廉は堂々と胸を張ったまま、与一のほうめがけて、ずかずかと、あいもかわらぬ大仰な態度で斜面を歩みくだってきた。

 ふたりの視線のあいだに火花が散ったのは、ほんの一瞬のこと……やがて人々は意外な情景を目にした。

 名うての荒くれ者の景廉が、与一のあぶみの風下につくや、いさぎよく膝をつき、頭を低く垂れたのである。

 武者たちは驚きに目を見張った。


「佐奈田殿、平佐古殿、数々の失言、ご無礼つかまつった。三浦は参った。佐奈田殿の言ったとおりでござった。わしは粗忽者ゆえ、頭に血が昇ると、考えなしになる。どうかお許し願いたい」

 先の山木合戦の大手柄に、景廉は内心、得意の絶頂であった。

 自分ひとりでも、目下の敵三千を踏み潰せると考えていた。

 だが、まったくの愚か者でもなかった。

 勇猛劣らぬ仲間たちが自分に投げかけた、無言の視線の意味をすぐに感じとった。

 立てた手柄が、かれの度量を大きくしていた。

 自分から口にした土下座の約束を、男らしく守ったのだ。


 与一は即座に馬をおりた。

 かれはこのような愚直な若者が大好きだった。

 この瞬間をおおいに楽しんだ。

 歩み寄り、大きな声をかけた。

「加藤の。私と新たな賭けをしよう」

「賭け?」

 景廉はまじまじと与一の顔を見つめた。

「わが軍と敵軍、どちらが勝つか……和殿はどちらに賭ける?」

「無論、わがほうにてござる」

 景廉が断言すると、与一はうなずいた。

「私も、わがほうに賭ける」

「ふたりで同じほうに賭けるのでは、賭けにならぬではありませぬか」

「それが、。この賭けに勝てば、褒美は計りしれぬぞ」

 与一は脇をとって景廉を立ちあがらせた。


「私もその賭けに乗るぞ」

 宗時が明るく調子っぱずれな大声で叫んだ。

 すると続々、武者たちは集まってきて、同じように気勢をあげ、拳を合わせた。

 気をよくした与一は、腹の底から大笑し、天にむかって握りこぶしを突きあげた。

「われらが力をあわせれば、勝利は間違いなしぞッ」

 与一の大きな笑いは野火のごとく、若武者たちのあいだに燃え広がった。

 景廉は与一の顔をまじまじと見つめ、それから大きな舌で両唇をなめると、くすぶっていたものが急に弾けるような勢いで大笑しはじめた。

 もはや伊豆者も相模者もなかった。

 ただただ若い獣たちの群れが、強大な敵を前に、本気で笑いあっているのだった。


 与一は背中の母衣ほろをひるがえし、ふたたび夕貌の鞍上の高みへ登った。

「加藤の。米だわら百俵、忘れまいぞ」

 景廉は心地よげに笑いながら、応、とえた。

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