第42話 与一、戦支度を進めること

家安いえやす、そなた、帰れ」

 一の郎党である文三ぶんざ家安にむかって、与一は言った。


 老臣は怪訝けげんな顔をして、兜の下から主人を見つめ返した。

 若い頃、悪四郎の手下てかで暴れまわった無骨者である。


 与一は説明した。

「私はこの度の先陣に選ばれた。武勇を誇る多くのつわもののなかから私が選ばれたのは、弓矢取りの名誉である」

御慶ぎょけいッ」

 家安は満面の笑みを浮かべ、手放しに飛びあがって喜んだ。

「聞け、家安」

 与一は厳しい顔でたしなめた。

「私は力の限り戦う。おそらく生きては帰れまい。心残りは母と妻、幼いふたりの子。後見を、そなたに託す。私が一番信頼するそなただからこそ、こうして頼むのだ。家安、佐奈田に帰ってくれ」


「嫌でござります」

 老臣はきっぱり言って、ぷいとそっぽを向いた。

 ッと頭に血がのぼった与一は、怒りに目を剥いた。

「馬鹿者ッ、私はそなたのためにも、言うておるのだ」

「わしのためですと? カァーッ、殿はわしのことを、まるでお分かりになっておられぬ」

 老臣はのどにからんだ痰を、荒々しく吐き捨てた。


「まだ二歳だったあなた様を胸に抱いて以来、わしは父親代わりとなって、昼となく夜となくお世話して参りました。

 幼き殿に弓矢のことをお教えし、馬のことをお教えしましたのもこのわしでござります。烏帽子の被り方は勿論、女の口説き方、夜這いの作法、筆おろしの方法まで、このわしがお教えいたしましたぞ。

 その殿の晴れのお役目に、この文三家安、おめおめ一人で逃げ延びよと申されまするか。人は噂することでござりましょうな。

『文三め、戦を前にしりごみし、主人を捨てて逃げおった』と。

 そのような恥ある者が、高名なせる佐奈田与一の郎党だと噂が立つことあらば口惜しきことこの上なし。カァァーッ、死なバ一所の討死うちじになりッッ」

 家安は口をへの字に結び、目を真赤に、仁王の如くにウンとおし黙った。


 与一のほうもの口の恐ろしい仁王顔になって、いまいましげに家安を睨みつけていたが、やがてあきらめたように目を伏せ、背をむけた。

「頑固者め、勝手にしろ」

 家安の顔はたちまち、笑み皺に崩れほころんだ。

「ハハッ、勝手にいたしまする」





 家安と立ち代わりに、同腹の弟、土屋小次郎義清がやってきた。


 兄の与一に劣らず、腕っ節が強く、しかも目には切れるような聡明さがある。

 そしてどこか垢抜けしている。

 それもその筈、義清はつい先だってまで都にいて、平家の下で働いていた。

 そのために都武者らしい、落ち着きと風格が備わっている。


 与一は、弟の肩に腕を回した。

「おそらく、生きては帰れぬ。義清、悪四郎おやじ殿と母上、妻子のことを頼む」

 義清としても、男ぶりのよいこの兄に会うのは、無上の楽しみである。

 このたびの企てを聞いて急ぎ都から駆けつけたのも、敬愛してやまぬ兄とともに戦いたいがためであった。


「兄上。私とて生きて帰れるか、わかりませぬ」

「ならばお互い様ということにしよう。お前の息子は?」

「今頃、三浦の軍中にいるはずです」

 与一の子らは幼いが、義清の子のほうは、すでに戦に出られるほどの年齢である。

「そうか。もし命冥加に生き延びる日があるならば、その時には生き残ったほうが、一族の後見をしっかり果たそうではないか」

「わかりました」


 顔を緊張させた弟に、与一は情愛ふかい微笑みを見せた。

「そう、しかつめらしい顔をするな。兄弟が敵味方に分かれてあい争うこの世のなかで、兄弟そろって戦えるとは、こんな嬉しいことはない。私はよい弟に恵まれた」

 言って、与一は弟の胸をどんと突いた。

「よい直垂ひたたれだな」

「袖のところに、色違いの錦を使っております。都の流行りで……」

 与一は弟の袖をとって面白がった。


「兄上の鎧、見事ですね。裾金物すそかなものが都びていて」

 義清が言うと、「いいだろ」と与一は、弟の目を見てニヤリと笑った。

「親父殿のお古を改造した。やはり、つわものは派手でなくてはな。、都の流行を詳しく聞かせてくれ」

「はい、必ず」

 ……今度などという時は、来ないかもしれない。

 そのことを重々承知していながら、兄弟は明日なき約束に、心を満たすのだった。

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