第39話 頼朝、石橋山に布陣すること

 この献言に従って、頼朝軍はもと来た道をわずかばかり南下し、石橋山へと赴いた。

 なるほど、話に違わぬ急峻である。

 果実や丸石を落とせば、たちまちに斜面を転がり落ちてゆく。

 西に山、東に海、道は山腹のうねりに沿ってくねりつつ、南北へ抜けている。

 南風の季節である。

 敵は北……つまり風下からやってくる。

 弓矢で迎え打つには、まさに絶好の場所である。

 頼朝と諸将は急な山道を踏みしめながら地形を読み、どこに布陣すべきかをしきりに論じあった。


 天には暗雲が低く、重く、立ちこめていた。

 西の空は山の背に覆いつくされ、たとえ晴れていたとしても、夕陽は見えないだろう。

 東にふり返れば、山裾は急勾配に海にくだり、途中で断崖となって落ち込んでいる。

 崖下では荒波が岸壁に打ちかかり、白い飛沫を高々と弾けさせている。

 相模湾の弓なりの海岸線は、くすんだもやのなかへ灰色に溶けて、東の果ての三浦半島はおぼろと消えている。


 頼朝は集まった御家人ひとりひとりを見つめた。

 源家の名と頼朝の人物を慕い、信じてついて来てくれたこの御家人たちのためにも、自分が心を弱くしている場合ではない。

 頼朝は下腹に力をこめた。

「みな肝を据えよ。ここが正念場である。ここを乗り切れば、坂東一円はわれらになびこうぞ。

 まずもって言っておく。敵は有象無象うぞうむぞうの寄り集まりである。その有象無象らのまとめ役となっているのが、大庭景親である。景親討ち果たされれば、自然、敵軍は瓦解するであろう。景親の素ッ首をあげることのみを、第一の目標とせよ」


 眼下にずらりと揃った三百騎を、頼朝は見回した。

「切り込みの先陣を望むは、誰ぞ」

 間髪入れず「応ッ」と悪四郎が躍り出た。

「悪四郎か……」

 齢六十九の老人である。

 人々はみな驚き呆れた。

 たちまち悪四郎に遅れじと、与一、景廉、宗時、宇佐美兄弟、佐々木四兄弟……多くの猛者たちが、口々に名乗りをあげた。

「我に先陣を」

「いや、私めが」

「我こそを」


 人々が猛り声をあげるなか、ひとり抜きんでた悪四郎は、大きな体を丸めこんで、頼朝の面前にひれ伏した。

「いやいや、お心得違い召されるな。わしではござらぬ。お頼み申します。わが子、佐奈田与一義忠よしただ

 今までこれといった手柄をたててはおりませぬが、胆力は誰よりも粘ッこく、弓箭ゆみやを取らせてはその技量は誰にも劣りませぬ。腕力もまた、百人力……いやッ、千人力。

 先陣を勤めるのに相応あいふさわしい器量を備えておりまする。どうか義忠めに先陣のお役目、お賜りくだされッ」

 悪四郎はひたいを地面にこすりつけた。


 ――愛する息子に栄誉をもたらそうという、親心。

 そして、先陣というもっとも危険な任務に愛息を差し出すという、忠誠心――

 悪四郎の廉直の心を、頼朝は武家の棟梁として、間違いなく汲み取った。


「佐奈田与一」

「ハッ」

 与一は父の背後にひざまずいた。

 青地錦あおじにしき直垂ひたたれに、金物もまばゆい赤糸縅あかいとおどし肩白わだじろの派手な大鎧を堂々と着こなしている。

 ため息がこぼれるほど立派な偉丈夫である。

 頼朝は、大きくうなずいた。

高名こうみょうせよ」

「ハハッ、かたじけなき幸せ」

 与一は勇ましく風を巻きあげ、こうべを垂れた。

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