第35話 頼朝、法音尼に勤行を頼むこと
すぐに移動の準備が始まった。
軍勢は、すでに三百騎あまりになっている。
これに三浦軍を加えれば充分、景親軍とも優勢に戦えそうな勢いである。
北条館を出た騎馬の列は、例によって牛鍬を渡り、大路を北上、伊豆半島の付け根を東へ横切り、急峻な熱海峠を抜けて伊豆山に入った。
頼朝は、伊豆山権現の別当、覚淵と会談した。
覚淵は、頼朝の師僧でもある。
すでに伊豆山との話し合いはついていた。
頼朝は、荘園の寄進を約束する。
伊豆山は、軍に全面協力し、頼朝軍の親類縁者を保護する。
そのために、女子供、老人など、戦に伴えぬ者たちを同伴してきていた。
会談が終わると、頼朝は例の、勤行の代行を頼むため、於政とともに法音尼の
法音尼は白髪を切りそろえた、目元の涼しい品のよい尼である。
すでに頼朝とも面識がある。
彼女は開口一番、こう言った。
「わたくしは反対でございます。佐殿には、戦などお似合いになられませぬ。物騒なことはおやめになられて、あなた様は今までどおり、ご先祖様がたの御供養にお励みなされ」
頼朝は不機嫌に鼻を鳴らした。
「私に、流人のままでいよ、と?」
「いいえ」
と、法音尼は首をふった。
「ご出家なさいませ。出家してこそ、あなた様は、真実のあなた様になられるのです」
「真実の私?」
馬鹿な……と、頼朝は心のなかで舌打ちした。「そういうわけにはいきません。もはや一線は越えてしまった。中途半端に投げ出すわけにはいかない。私を必要としてくれている、たくさんの者たちがいる」
「あなた様はご自分がどのような方なのか、分かっておられぬのです。あなた様が進もうとされておられる道は、修羅の道です。あなた様にとっては実につらく険しい、苦しみの道ですぞ」
厳しいまなざしで、尼は頼朝を見つめた。
「言われなくとも、わかっている」
頼朝は母親に叱られた子供のように不機嫌に言い放ち、法音尼も
見かねた於政がなにか言いかけるのを引き止めて、頼朝は言った。
「……
席を立とうとすると、
「お待ちください」
と、法音尼はかれを引き止めた。
「勤行の件、わたくしが承りましょう」
「本当ですか?」
「ええ、その代わり」
と、法音尼は釘を刺した。
「これだけはお忘れなさいませぬように。あなた様の魂は、いつも仏道を
たとえその身が戦の庭のただなかにあったとしても、いつでもあなた様はその片割れの魂のことをお思い出しになられて、必ずや仏の御心に恥じぬような立派な生き方をなされますよう、お願い申しあげまする」
頼朝は法音尼の言葉と、目の力とに、驚きを感じていた。
私欲がなく、澄みわたっている。
この人なら託せるだろう……いや、この人でなければならない。
頼朝は確信をもってうなずいた。
「わかりました」
尼が尋ねた。
「……して、日々の勤行とは?」
聞かれて、うむ、と頼朝はうなずいた。
「般若心経大本、巻物にして十九巻。これを読経いたします」
「承りましてござりまする」
頭をさげようとした法音尼を、頼朝は慌てて制した。
「いやいや、それだけではない。つづいて、石清水八幡、由比若宮、熱田、八剱、大箱根、能善、駒形、伊豆山権現、禮殿、三島、熊野権現、若王子、住吉、富士大菩薩、祇園天道、北斗、観音、これらおのおの一巻ずつ、読経いたす。さらに、観音経一巻、寿命経一巻、毘沙門経一巻。つづいて……」
「まだまだつづきまするか」
法音尼は思わず哄笑した。
この人は、愛すると叱り、驚くと笑うのである。
頼朝は、うなずいた。
「うむ。つづいて、薬師咒二十一返、尊勝陀羅尼七返、毘沙門咒百八返、これらは大願成就と子孫繁栄の為。阿弥陀仏名千百返。一千返は、父祖の菩提を弔うため、百返は、父が一の郎党、鎌田正清のため。……以上でござる」
それは出家修行の身にある尼にとってさえ、驚嘆すべき分量であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます