第36話 頼朝と於政、山家に還ること
「伊豆に来たはじめには、これほどまで多くはなかったのですが、すこしずつ増えて、二十年のうちにこのような量になりました」
頼朝は感慨にふけりつつ、それらの目録をしたためた巻物を長膳に乗せ、尼に遣わした。
法音尼のほうも、まさか今更、後へはひけない。
覚悟を決めて、凡慮をぐっと腹に呑みこんだ。
「確かに、お受けいたします」
「やってくれますか」
この時、すうと抜けるような笑顔をみせた頼朝を見て、法音尼は、けして悪い男ではないと思った。
これまでのあいだ、ひとり心に決めて、これだけ大量の仏行に一途に打ち込んで来たものと見える。
法音尼は袖を打ち、歳とともにかがまった背筋を精一杯に正し、深々と頭をさげるのだった。
「神仏から課せられましたる勤行と肝に命じまして、誠心誠意、お勤めさせていただきます」
「お願い申しあげる」
身分や男女の隔たりを越えて、頼朝の頭も自然とさがった。
それは法音尼が
於政もまた、心から敬意をこめて、師の前に頭をさげるのだった。
別れ際に、法音尼が言った。
「――佐殿のお声がよろしいのは、読経の功徳でござりましょう」
頼朝は、はっとして足を止めた。
自分では気がついていなかった。
「ありがたいことです」
……目礼して、法音尼の庵を後にした。
◆
(真実の自分……)
歩きながら、頼朝は法音尼に言われたことを考えていた。
それがどんなものなのか、頼朝にはまったく想像もつかない。
人々が求めるがごとく、受け継いだ血のごとく、武家の棟梁たるべきなのか。
それとも法音尼の言うがごとく、仏道に生きるべきなのか。
(……はたまた、なんの取柄もない
山中の道を抜けると、杉木立のむこうに、懐かしい山家が見えてきた。
頼朝は、藤九郎と盛綱、れん、鬼武のほうにふり返った。
「しばし、於政とふたりきりにしてくれ」
「ハ」
人払いを命じ、ようやく息をついた。
四六時中人々に取り囲まれて、安堵する暇もなかったのである。
山中の静寂が、呼吸を楽にしてくれるようであった。
頼朝が思うより先に、於政が背中にまわりこみ、
彼女はそれを丁寧に、素早く折り畳んだ。
衣に焚き染められた香の匂いに、ほっと、ため息をついた。
「やはり、ここは落ち着くな」
「はい」
頼朝と於政は縁側に腰かけて、ぼんやりと、秋の色に染まりはじめた樹々を見つめた。
「明朝には山を降り、軍を北に進める。ここに残していく者たちを、しっかりと取りまとめてくれ。頼むぞ」
「はい。お帰りは……」
「わからぬ。無事に帰ってこられるかどうかも」
於政は、愁い顔をうつむけた。
頼朝は気遣って、つけ加えた。
「世情が落ち着いたら、また以前のように、いや、以前よりも楽しく暮らせるだろう」
しばらく黙っていた於政が、ふいに言った。
「男の子が、ほしうございます」
ふふと、頼朝は笑った。
「そうだな。元気な子を生んでもらわねば」
於政は希望を胸に、女童のような、素直な瞳をむけた。
「背の君はきっと無事に、帰っていらっしゃいます。だって、あの夢解きを覚えておられるでしょう?」
と、健気に笑ってみせてから、急に真剣な顔になった。「お百度も踏みます。千巻の経も読みます。背の君がご無事でありますよう、ずっと祈っております」
「……頼む」
「はい」
於政は、目をやわらかに細めた。
「あの頃を思い出します。庭に梅が咲いて、
「私もだ」
「これから先、なにがあっても、あなたに夢中になった田舎娘がいたこと、忘れないでください。その娘と一緒に暮らしたあなたがいたことを、忘れないで……」
於政は夫の胸に顔を埋め、囁いた。
互いの体をきつく抱きしめあうふたりを、伊豆山の日輪が眩しいほどに照らしていた。
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