第36話 頼朝と於政、山家に還ること

「伊豆に来たはじめには、これほどまで多くはなかったのですが、すこしずつ増えて、二十年のうちにこのような量になりました」

 頼朝は感慨にふけりつつ、それらの目録をしたためた巻物を長膳に乗せ、尼に遣わした。

 法音尼のほうも、まさか今更、後へはひけない。

 覚悟を決めて、凡慮をぐっと腹に呑みこんだ。


「確かに、お受けいたします」

「やってくれますか」

 この時、すうと抜けるような笑顔をみせた頼朝を見て、法音尼は、けして悪い男ではないと思った。

 これまでのあいだ、ひとり心に決めて、これだけ大量の仏行に一途に打ち込んで来たものと見える。


 法音尼は袖を打ち、歳とともにかがまった背筋を精一杯に正し、深々と頭をさげるのだった。

「神仏から課せられましたる勤行と肝に命じまして、誠心誠意、お勤めさせていただきます」

「お願い申しあげる」


 身分や男女の隔たりを越えて、頼朝の頭も自然とさがった。

 それは法音尼がかもしだす、淑気のような清々すがすがしさのためだったかもしれない。

 於政もまた、心から敬意をこめて、師の前に頭をさげるのだった。


 別れ際に、法音尼が言った。

「――佐殿のお声がよろしいのは、読経の功徳でござりましょう」

 頼朝は、はっとして足を止めた。

 自分では気がついていなかった。

「ありがたいことです」

 ……目礼して、法音尼の庵を後にした。





(真実の自分……)

 歩きながら、頼朝は法音尼に言われたことを考えていた。

 それがどんなものなのか、頼朝にはまったく想像もつかない。

 人々が求めるがごとく、受け継いだ血のごとく、武家の棟梁たるべきなのか。

 それとも法音尼の言うがごとく、仏道に生きるべきなのか。

(……はたまた、なんの取柄もない流人るにんばらであるのか……。それがわかるまで、歩みつづけてみようか)


 山中の道を抜けると、杉木立のむこうに、懐かしい山家が見えてきた。

 頼朝は、藤九郎と盛綱、れん、鬼武のほうにふり返った。

「しばし、於政とふたりきりにしてくれ」

「ハ」

 人払いを命じ、ようやく息をついた。

 四六時中人々に取り囲まれて、安堵する暇もなかったのである。


 山中の静寂が、呼吸を楽にしてくれるようであった。

 頼朝が思うより先に、於政が背中にまわりこみ、水干すいかんを脱ぐのを手伝ってくれた。

 彼女はそれを丁寧に、素早く折り畳んだ。

 衣に焚き染められた香の匂いに、ほっと、ため息をついた。

「やはり、ここは落ち着くな」

「はい」

 頼朝と於政は縁側に腰かけて、ぼんやりと、秋の色に染まりはじめた樹々を見つめた。

「明朝には山を降り、軍を北に進める。ここに残していく者たちを、しっかりと取りまとめてくれ。頼むぞ」

「はい。お帰りは……」

「わからぬ。無事に帰ってこられるかどうかも」

 於政は、愁い顔をうつむけた。

 頼朝は気遣って、つけ加えた。

「世情が落ち着いたら、また以前のように、いや、以前よりも楽しく暮らせるだろう」


 しばらく黙っていた於政が、ふいに言った。

「男の子が、ほしうございます」

 ふふと、頼朝は笑った。

「そうだな。元気な子を生んでもらわねば」

 於政は希望を胸に、女童のような、素直な瞳をむけた。

「背の君はきっと無事に、帰っていらっしゃいます。だって、あの夢解きを覚えておられるでしょう?」

 と、健気に笑ってみせてから、急に真剣な顔になった。「お百度も踏みます。千巻の経も読みます。背の君がご無事でありますよう、ずっと祈っております」

「……頼む」

「はい」


 於政は、目をやわらかに細めた。

「あの頃を思い出します。庭に梅が咲いて、馬酔木あせびが咲いて、姫を抱っこして、この山家は雨漏りしたり、鼠が走りまわったり……。貧乏で困ったこともたくさんあったけど、私には初めてのことばかり。今思えば、毎日がとても楽しかった……」

「私もだ」

「これから先、なにがあっても、あなたに夢中になった田舎娘がいたこと、忘れないでください。その娘と一緒に暮らしたあなたがいたことを、忘れないで……」

 於政は夫の胸に顔を埋め、囁いた。

 互いの体をきつく抱きしめあうふたりを、伊豆山の日輪が眩しいほどに照らしていた。

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