第37話 頼朝、伊豆山を発つこと

 ――翌朝、すぐ北の土肥郷にむけて、軍は移動を開始した。


 於政は心配を胸のうちに押し込めて、あえて気丈な顔を保ちながら見送りに出た。

 弟の宗時は、都ふうの真新しい鎧を身にまとい、得意げに馬にまたがっている。

 頼朝が自分の予備のために用意させておいたものであったが、山木先陣の褒美として宗時に賜ったのである。


(髭も生え揃わぬ顔で……)

 より大人の男に見られようとてか、わざと髭を伸ばしているようだ。於政は胸が痛んだ。

「三郎殿、わたくしに代わって、佐殿をおたのみ申しますよ」

「任せておいてください。姉上の分まで働いてきますよ」

 宗時の明るさに、やや心救われるものを感じながら、今度は夫のほうを見あげた。

 頼朝は馬上、口をつむんで、強気な将軍のふうを装っている。


 行軍がはじまり、勇ましい太鼓の音が打ち鳴らされた時、ふいに於政のなかに、狂おしいまでの愛おしさがこみあげてきた。

(今生の別れになるやもしれぬ)

 気丈な顔をもって夫を送り出そうと固く心に決めていたはずが、思わず、瞳を熱く濡らすひとしずくをとどめる事ができなかった。

 於政は、被衣かずきかげに顔を隠した。


(泣いておるのか)

 頼朝は袖を伸ばし、妻の白い手をそっと握った。

 口取りにひかれて馬は歩き出し、ふたりの手は空に離れた。

 頼朝は、しっかりと手綱を握りなおした。

 於政は手に残ったかすかなぬくもりを、きつく胸に抱きしめた。




   二



 二十二日――土肥領から更に北上し、早川へと入った頼朝軍に、痛烈な一報がもたらされた。


「景親軍の数が、予想以上にふくれあがっております」

「どれほどか?」

「ハッ、敵は三千騎を超えるかと」

「――三千?」

 驚くべき数字だった。

 諸将は肝を抜かした。


「なにかの間違いではないか」

「いえ、確かに、千や二千はゆうに越えておりました」

「ぬしはその目で見たのか?」

「ハイッ」

「三千……」

 今の頼朝がたは、三百。

 対する敵は……三千。

 諸将も驚いたが、頼朝の受けた心の衝撃は、その数字以上に、あまりにも大きかった。


(十倍――。私の名のもとには、三百しか集まらなかったというのに……。山木合戦から四日。そのあいだに景親は平家の名のもとに、三千もの武者を集めたのか……)

 たちまち灰をかぶせられたように心が真っ暗になった。

 自分と平家との現実が、そこにはあった。


『人が富士山と背比べするようなものだ』

 ――いつか藤九郎の口から聞いた首藤経俊の言葉が甦り、胸の底に何度も何度もいやらしく響きわたって、全身の力が抜けてゆくようであった。

(自分はやはり、愚かしい夢に踊らされただけであったのか……)

 頼朝の心中の不安が伝播するかのように、陣中はたちまちに重苦しい雰囲気に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る