第29話 頼朝、戦支度を進めること

 時政の屋敷で、頼朝は大鎧を着用した。

 昨夜までの雨気を含んだ鎧が、ずしりと重い。

 古い革の匂いが鼻をつく。

 下に着込んだ直垂ひたたれは、赤地のにしき

 鎧は赤威あかおどし

 裾金物すそかなものは銀ごしらえで、蝶の丸の意匠が目にもあざやかに輝いていた。


 於政は田舎娘とはいえ、さすがに武者の娘、鎧の着せ方もしっかりと仕込まれている。

 小袖にたすきがけできびきびと働き、郎党たちが渾身の力をこめて頼朝の鎧を締めるのを、ぬかりのないよう目配りした。


 宗時がやってきて、頼朝の足元に平伏した。

「先陣にお選びいただき、ありがとうございます」

「なに、宗時は日ごろから熱心に鍛錬に明け暮れている。そのがんばりを、私は見ている。それとな……」

 と、頼朝はやわらかに微笑した。「今朝の喧嘩の話を聞いて、私は決心したのだ」


「え」

 喧嘩を止められなかった自分が、どういうことか?

 ……不審げな顔をした宗時に、頼朝は言った。

「暴発を抑えきれはしなかったが、いちはやく率先して事態の収拾にあたり、よく若者たちをまとめた、とな。……宿老たちが、褒めていたぞ」

「そ、そんな……」

 宗時は頭を垂れ、嬉しさに戸惑った。

 ……佐殿も、大人たちも、自分のことをしっかりと見ていてくれていた……宗時は、ぐっと握りこぶしを固めた。

「しっかり頼むぞ」

「はいっ」


 時政が入ってきて、頼朝の耳に囁いた。

「東の屋敷を本陣といたします。佐殿には本陣にてお待ちいただきます。合戦が始まれば、最初にずもって、山木館に火を放ちますれば、その火をこちらからもご覧いただけるでしょう。

 もしや万一敗残の場合には、急使を遣わしますれば、三浦か、あるいは甲斐かい国を目指し、落ち延びてくだされ」


 話している所へ、庭のほうから、紫の胴丸姿の加藤景廉かげかどが、

「佐殿ッ」

 と、ものものしく縁側に詰め寄ってきた。

「なんぞ」

「無礼な」

 すかさず佐々木兄弟が大きな体で立ち塞がると、景廉はその場に平伏し、いかにも口惜くやしそうに歯ぎしりした。

「佐殿ッ、こたびの戦、なにゆえ俺を使ってくださらぬのです?」

 景廉は、狂犬が噛みつくような大声で叫んだ。


 頼朝は身支度をつづけさせながら、静かに、目だけで景廉を見て言った。

「今朝のこと、聞き及んでおる。そなたは愚かな騒乱を引き起こしたにも懲りず、その後も相模の御家人たちをあなどってはばかりないとか。そなたは御家人たちの和を乱すゆえ、戦列には加えぬ」

「いえ、けして、和を乱すなどとッ。お願いでござります。身命を賭して働きますゆえ」

「こたびの決起には、御家人全員が心をひとつにせねばならぬ。自分がどのように行動すべきか、頭を冷やし、その意味をとくと考えよ。よいな」

「……ハ……」

 佐々木定綱が大きな体を寄せ、なだめるように言った。「庭に控えておれ。留守居も重要な役目ぞ」

 景廉は渋々、頭を垂れた。


 腰刀を捻りこんで、頼朝の仕度が終わった。

「鬼武」

「ハ」

長刀なぎなたを」

「はい」

 鬼武が細長い白木の箱を、大切に抱えてきた。


 頼朝は恭しく両手を合わせた後、自らの手で紐をほどき、蓋をひらいた。

 なかから現れたのは、銀と螺鈿らでんをこまやかに散りばめた、輝くような宝刀であった。

 磨き抜かれたやいばさびひとつなく、水に濡れたようになまなましく輝いている。

 ほぅ……と、そばにいた藤九郎も盛綱も、心奪われたように、ため息をもらした。


「お父上の、……遺品でございますな」

 藤九郎が面持ちをひきしめて言うと、頼朝は無言でうなずいた。

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