第30話 頼朝、采配をふるうこと


 その長刀を片手に、頼朝は外に出て、武者たちをひとりひとり激励した。


 馬の鼻息、ものの具の立てる金音、興奮を隠せない人々のささやき声、篝火の弾ける音、むせるような馬のにおい、汗のにおい。

 ……頼朝はそのうちに、遠い昔に忘れ去り、置き去りにしてきた何かが、胸に浮かびあがってくるのを感じた。


 ぼんやりとした様子の夫に気づき、於政が声をかけた。

「いかがなされました」

 緊張しているのかと思いきや、頼朝は意外なことに、ふっと笑った。

 久しぶりに見せる、心地よげな笑みだった。

 かれは少年のような面持ちになっていた。


「私はまだ十三歳だった。初陣ういじんの話さ。父はいかめしく、言葉数すくなく、その背中はとてつもなく大きかった。ふたりの兄たちは立派な鎧姿で、冬の朝日に真っ白に輝いて見えた。私も源家相伝の立派な鎧を着て、馬上、並みいる東国の武者たちを見おろしたのだった。信じられるか? 私はあの時、宮中にいたのだぞ」

 於政はなにも言わず、ただうなずいて、頼朝の手を強く握りしめた。

 夫を心底、いとおしいと思った。


 時政、宗時以下、大鎧に身を固めた北条の武者たちがかたわらに寄ってきて、献言した。

「今日は三島大社の大祭です。北の牛鍬うしくわから狩野川を渡れば、その先の大路おおじは、大社からの帰りの人々で満ちあふれていることでしょう。人々の目に止まれば、奇襲が山木に知られてしまいます。南の蛭島を渡るべきでしょう」

 北条の東を流れる狩野川には、ふたつの渡河点がある。(※)

 牛鍬か、蛭島か、そのどちらから渡るべきか、時政は問題としているのである。


 頼朝はうなずいた。

「そなたらの言うとおりであろう……」

 うなずきかけて、ふと言葉が途切れた。

 父義朝の顔がふいに、まなうらに浮かんだ。

 すると唐突に、二十年前の初陣と今この瞬間とが胸のうちで激しい金音を立てて接続した。

 頼朝はふるえた。

 それはまるで、二十年前に放たれた矢が唸りをあげ、今この瞬間、わが胸を刺し貫いたかのようであった。


 頼朝は伝家の宝刀を高々と虚空にかかげた。

 月と光を争うが如く、むきだしの白刃がきらめいたとき、気がつけば、かれは自分でも驚くほどの大音声だいおんじょうを張りあげていた。

「者ども聞けィ」

 時政は、たじろいだ。

 景義も与一も、年寄りも若者たちも、人々は驚いて手を止め、かれらの盟主の顔をまじまじと見つめた。


「聞けィ、これはただのいくさではない。これは天下草創の戦である。特別な戦なれば、裏道をゆくなど、もってのほか。

 昨日までの大雨にて、蛭島の小道は大湿原と化し、貴殿らはとても騎馬でゆくことはかなうまい。

 思い出せ。われわれは『皇軍』である。人々に威を示せ。堂々と大道を進むをもって、天下草創と成すべし」

 頼朝の声韻こえは闇空に響きわたり、星辰をもふるわせた。


 ――不思議なことであった。

 一軍を率いたこともない頼朝であったにも関わらず、その言葉には、才将の知性があった。

 戦馴れした将軍の威風があった。

 強い星のまたたきに似た、希望の煌めきがあった。

 脈々と伝わる源家将軍の、血筋の為せるわざであろうか。

 それとも頭領としてのふるまいを、十三の歳までに知らず知らず体得していたのだろうか。

 本人にもわからぬ大きななにかが、頼朝をつき動かしていた。

 異様などよめきと興奮のさざなみとが、感動にうちふるえる武者たちのあいだを静かに駆けぬけた。





(※ 狩野川は現在、北条館跡の西を流れていますが、頼朝の時代には、北条館の東を流れていました。作中では、北条の東に本流が、西に支流が流れているという設定にしてあります。)

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