第19話 頼朝、盛綱を思うこと

 時は、刻一刻と過ぎてゆく。


 頼朝はいっこうに到着せぬ佐々木兄弟のことで、鬱々と頭を悩ませていた。

 合戦は十七日早暁……確かに、そう伝えたはずであった。

(佐々木兄弟は裏切る気かもしれない)

 悲劇多き人生を送ってきたこのかつての貴公子は、不安のあまり、そこまで思い詰めた。

「すこしばかり、お眠りになられては」

 見かねて於政が言ったが、頼朝は首をふるばかりであった。


 佐々木兄弟の三男坊、盛綱は、当時十六歳であった。

 父の源三に命ぜられて流人の頼朝のもとにやってきた。

 勇敢で、よく気が利く性格で、まじめに、身を粉にして働いてくれた。

 頼朝もこの盛綱を、実の弟のようにかわいがった。


 そのように忠実だった盛綱までをも疑うのは、理由がないでもない。

 盛綱は父親の源三と非常に仲が悪く、父と反対の行動をとる怖れがあった。

 そもそも頼朝のもとに来たのも、大嫌いな父のもとを離れられる、これ幸いと、やってきたのだ。

 少年の盛綱にとっては、父源三が新しい若妻にみっともないほど入れ込んでいるのも、面白くない理由のひとつだったのかもしれない。


 盛綱ははじめ、「秀綱」という名であった。

 父、佐々木源三秀義から「秀」の字を受け継いでいた。

 ところが頼朝のもとで働くうち、どういうわけか藤九郎のことをいたく気に入ってしまった。

 これぞまさに理想の父親と私淑し、藤九郎を烏帽子親えぼしおやとして、改めて元服したいと言い出した。

 頼朝と藤九郎はおもしろがって元服式を行ってやった。

 藤九郎盛長から「盛」の一字をもらい、「盛綱」と名前を変えた。

 この改名が、佐々木父子の仲をさらに悪化させた。

 息子の改名を知った源三は激怒し、盛綱を勘当に処するという事件があった。


 そのような父子のいざこざに加え、盛綱は今では、平家方に属する波多野一族の婿になっている。

 波多野一族に従う怖れもある。

(波多野は娘をめあわせて厚遇した。私は……なにもしてやれなかった……)

 頼朝としては、弟分の盛綱に女人の世話のひとつもしてやりたかった。

 だが流人の境遇では叶うべくもない。


 流人である自分自身への引け目、劣等感こそが、盛綱への疑心暗鬼を生んでいる。

 そうした自分の心の動きを、頼朝は自分自身でよく理解していた。

(盛綱は妻子を捨ててまで、私に尽くしてくれるだろうか? そこまでのものを、そこまでの魅力を、私は持っているだろうか? 果たして……)

 流人の頼朝には、まったく自信がなかった。


 佐々木兄弟の長男と次男にも、盛綱と同じことが言える。

 かれらが婿に入っている渋谷家は、積極的には頼朝を支持せず、平家の恩をこうむっている。

 もしも佐々木兄弟から平家方に挙兵の密事が漏れれば、こちらの体勢の整わぬまま、たちまち平家方の攻撃を受けることになるだろう。


『佐殿の御為、いざ敵が攻め来たれば、一戦交える覚悟です』

 かつてそう言った盛綱の、可憐なまでにまっすぐな眼差しが、頼朝の胸をついた。

(盛綱……)

 頼朝は悩ましげに、皆水晶みなすいしょう数珠じゅずを額に押し当てた。


 ふと、つつみこまれるような心地にわれに返ると、於政が衣を背にかけてくれていた。

 頼朝は肩ごしに、妻の手を握りしめた。

 心には、妙な静けさが漂っていた。

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