第4話 景義、春を届けること

 於政は引き込まれるように笑顔になって、先ほどまでの憂いも忘れてしまった。


 跳ねるように立ちあがると、両腕を広げ、明るい声を投げかけた。

「梅も馬酔木あせびも、もう待ちきれずに咲いてしまいましたよ」


 老爺はカカ、と笑った。

「それはそれは……参上が遅れましたかな。なるほど、梅も馬酔木も、お美しいあなた様を春の女神ひめがみ――佐保姫さほひめと勘違いしたのでしょう。それで慌てて花を咲かせたのでござりましょうぞ」

「あいかわらず。色代おべっかを。口のうまい」

 目を見合わせて、ふたりは噴き出した。


夫君おっときみは、いかに?」

「いまだ、夢路ゆめじにて……」

 ふり仰げば、山家はすべての戸を閉ざしたまま、ひっそりと静まりかえっている。

 古さびて土壁は破れ、なかの木組みまで、むき出しのままである。

「粗末なところですが……」

 と、於政は景義を縁側に招いた。「お疲れになったでしょう。ささ、腰掛けて」

「お気づかい、かたじけのうございます」


 腰をおろした老人は、葛羅丸に手伝わせ、縁の板に次々と土産とさんの品を並べていった。

「これが土肥どいから、これが岡崎から、そっちが、わしの弟の豊田次郎から、これはわしから……漬物しおおしですじゃ。山の幸、海の幸を手づから漬けこみましてのう。

 こちらは大庭おおば御厨みくりや名産の、干しアワビでござりますよ。未醤みそひしお煎汁いろりささも菓子も、たんと持ってまいりましたぞ」


「いつもいつも、かたじけのうございます」

 於政は瞳をうるませ、主人に代わって、深く頭をさげた。


 藤九郎と盛綱も、にぎやかに集まって来た。

 鶯の初音はつねこだまする山奥に今しも笑顔の花が咲きあふれて、それはまさしく、この老爺が春を運んできたかのようであった。


 ――その時である。


 ぞぞぞ、ぞぞぞ……と古屋の遣戸やりどが、苦しむように身をふるわせた。

 外の様子を騒がしく思ってか、山家の主人が忽然と顔を出した。

 現れたのは、冴えない三十すぎの男である。

 烏帽子えぼしを無頓着に頭のてっぺんに乗せ、急いで羽織ったのであろうか、衣服の衿口もだらしなく乱れている。

 もともとは美男であったものが、今では目も落ち窪み、頬も痩せこけ、不精髭も生え放題でむさくるしい。


 景義を居間にあがらせると、主人は、品のよさげな都風みやこふうの挙措で、礼儀正しく頭をさげた。

「いつもすまぬな、景義」

「いえいえ、お気になさりまするな、佐殿すけどの


 佐殿――洒落た尊称で、田舎人からそう呼ばれるこの人は、名を源頼朝みなもとのよりともという。

 都から流されて来た罪人である。

 罪人として伊豆山に隠遁しているさまは、さながら役行者えんのぎょうじゃの境遇と似ていなくもない。

 ただ頼朝の場合は、すき好んでこの場所に来たわけではない。


 そそと、於政が白湯の椀を差し出した。

 伊豆山の霊湯を沸かしたなかに、白梅の花びらを浮かべてある。

 景義は丁寧に礼を言い、早春の光あふれる湯水を一口ふくんだ。


 景義は昔、頼朝の亡父に親しく仕えていた。

 それで、頼朝が罪人となった今も、なにくれとなく世話を焼いている。

「この度はまた難儀なことになりましたな」

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