第88話 悪四郎、英断すること

「なに、許すと?」

 御所北対きたのたい広廂ひろびさしで、頼朝と於政は驚きの声をあげた。

 ふたりを前に、悪四郎はこの九ヶ月間の苦悩と、長尾新六を許すにいたった経緯とを告白した。


 聞きながら頼朝は、ふかく感心してため息をついた。

「もとより長尾新六の身は、悪四郎、そなたに一任したのであるから、異論はあるまいぞ。しかし……」

 頼朝は言葉を呑みこんでから、ようやく言った。

「……その決断は、苦しかったことであろう」


 悪四郎は、派手に、した。

「許すまでは、いささか苦しうはございましたがの。しかしいざ、許すと決心した後は、心が晴ればれとして参りました。与一も冥土で喜んでおるような気がしておりまする」

「そうか……」


 頼朝はしばらくのあいだ瞑目していたが、やがてうなずきながら呟いた。

「最愛の息子を殺した怨敵を許すという。この悪四郎を、もはや悪四郎とは呼べぬ。『岡崎四郎義実よしざね』は、並びなき、偉大なる求道者ぐどうしゃである」


 石の壺庭には、晴れの海を描いた白い砂紋が大きな渦を巻き、屋根の影を隔てたそのむこうから、まぶしい光を照らし返している。

 竹で編まれたまがきには、朝顔の花々が清々すがすがしく咲き乱れている。

 夫と悪四郎とを見比べながら、於政はまぶたを細め、慈愛ふかく微笑ほほえむのだった。





 首藤経俊につづき、長尾新六赦免の報が、御家人中に知れ渡った。

 これを受け、兄の新五も赦免された。

 景義は豊田次郎を引き連れ、たくさんの土産とさんを荷車に乗せて、南隣の屋敷へ、お礼に赴いた。


 悪四郎の面前で、ふたりは深々と頭をさげた。

 それは従弟たちを救ってくれたという、お礼の気持ちばかりではない。

 岡崎四郎義実という人物への心からの尊敬が、自然なお辞儀となって、表れたのである。


 悪四郎は近頃見られなかった晴ればれとした表情で、大庭兄弟を招き入れた。

 酒がふるまわれ、宴となった。


 ふたりの幼子がちょろちょろと出てきて、景義たちの前にひざまずいた。

「千太郎にございます」

「千次郎にございます」

 子供たちはかわいらしく、ちいさな頭をさげて丁寧におじぎをした。

「与一の忘れ形見じゃ」

 と、悪四郎は顔をくしゃくしゃに、ほころばせた。


「おお、なんとまあ」

 景義も次郎も目元をゆるませた。

「佐奈田から遊びに来てくれてのう」

 童たちは「じいじ、じいじ」と、悪四郎にまとわりつく。

 顔にふくらんだ大きなイボをなぶろうとする。

 孫たちのかわいらしい手から嬉しそうに逃げながら、悪四郎は言った。


「実は、もうひとりいるのじゃ」

 呼び声に応じ、頭に布をかけた若い後家尼が、乳飲み子を抱えて現われた。

 それは、与一の奥方であった。

「千三郎じゃ。生まれたばかりでのう。与一め、知らずに逝きよったよ」

 広庭のむこう、純白に輝く雲の峰を見つめながら、悪四郎は眩しげに目を細めた。


 景義と次郎とは肩を寄せ、むつきにくるまれた赤子をのぞきこんだ。

「なんともかわゆいのう」

 と、一同、おのずとなごやかな笑みに包まれるのだった。


「それでは遅ればせながら、お目出度の祝杯を」

 次郎が陽気に、悪四郎の杯に酒をそそいだ。

 景義は、呆れ声をあげた。

「次郎よ、祝杯とは……与一の一周忌もまだじゃのに……」

「まあ兄者、カタい事を言いなさるな。与一もあの世で赤子の誕生を喜んでおるわ。のう、悪四郎どん」


 悪四郎老人は大きな体を揺らしながら、青空を押しひらくようなおおらかさで笑うのだった。

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