第87話 悪四郎、与一の夢を見ること

 新六は囚われの生活にもかかわらず、朝は必ず日の出とともに起きあがり、身なりを正し、澄みわたった声で法華経八巻を読誦した。


 日がな一日、読経をつづけ、夜は日の入りとともに身を横たえた。

 そうしてついに九ヶ月がすぎた。





 ある夜、悪四郎は夢を見た。

 与一の夢である。

 与一は首だけの凄惨な姿で現れた。


 髪はざんばらにふり乱れ、血走った両の目は鬼火の如くに煌々こうこう陽炎かぎろい、その顔には見るも無惨な苦悶の表情を浮かべていた。

 どういうわけか、蒼ざめるほどに白い夕顔の花が一輪、与一のびんを飾っていた。


 悪四郎はふるえる両腕をさしのべ、愛息の首を胸にかき抱こうとしたが、一面の血糊で足元がぬめり、すこしも前に進むことができない。

 あがいているうちに、呼吸まで苦しくなってきた。


「与一よぉ、与一よぉ」

 老父はうめいた。

 その悲しげな呼び声が届いたか、亡骸なきがらとばかり思っていた与一の口が、ぱくりとひらき、唇から鮮やかな血がごぼごぼとあふれ出し、言葉を結んだ。


「親父どの、親父どのがこの与一のことで、あまりにも嘆き苦しんでおられるがゆえに、私はいつまでたっても成仏することができませぬ。どうか仏の御心みこころにかなう立派な生き方をなされますよう、与一、最後のお願いにあがりましてございまする」


 それだけ言って、与一の首は苦しげに咳込みながら、血の海のなかへと沈んでいった。

(与一――)

 悪四郎は、飛び込んだ。

 赤黒く淀んだ海のなかへ、わが身を捨てる思いで。


 血の海のどこからか、与一の咳の音が聞こえてくる。

 途切れなく、聞こえつづけている。

 悪四郎のまなうらに、ありありと思い浮かんだのは、幼童の与一が喘息の発作で苦しんでいる様子だった。


 咳にのどふたがれ、息もできず、さぞや苦しかろう……

 わが子を救いたい、救いたいのじゃ……


 悪四郎はねっとりとした血の沼のなかへ、一心に両手をさしのばし、どろりと重たい血糊をかきわけながら、息子の首を懸命に探し求めた。

 進むにつれ、次第に血の海は深さを増し、泥のような血が悪四郎の口元にまであふれてきた。

 口じゅうに鉄を噛むような生臭い匂いが広がった。

 それは与一が断末魔の時に味わった苦しみと、同じものなのだろうか。

 溺れてゆく。

 血の海へ溺れてゆく。

 もがけばもがくほど、深みへとはまってゆく。

 息ができない。


「ヨイチィ、ヨイチィッ」

 張り裂けんばかりに絶叫しながら、悪四郎は跳ねあがるように飛び起きた。

 全身汗だくで、呼吸はふいごのよう。

 闇のなかで心配げに見守る妻と、目があった。

 ……聞けば、ひどくうなされていたらしい。

 息も絶え絶えのかすれ声を絞り出し、悪四郎は水を求めた。

 

 蒸し暑い、寝苦しい、真夏の晩。

 庭先には夕顔の蒼白い花が一輪、鬼火のようにほのめいていた。





 翌朝、めざめるや、悪四郎はついに決断した。

(今日限りをもって、この馬鹿げた苦しみに決着をつけてくれるッ)


 しかみ顔の鬼へと変じた悪四郎は、新六の囚われている部屋へと狂乱して踊りこんだ。

 新六はいつものごとく、経を読んでいる最中であった。

 ぎらりと白刃を抜き放ち、老人は若者の首に押しあてた。


「今日で終わりぞ。いつものごとくに念仏唱えィ。しまいまでは、待ってやる。身の成仏じょうぶつを、祈らっしゃいッ」


 新六も、さすがは武者の子。

 たじろぐことなく、落ちついていた。

 その頬は痩せこけてしまったが、瞳はいっそうに澄んでいた。


「この時を、今か今かと待っておりました。今更、わが身のために念仏など唱えたところでなんになりましょう。今生、修羅道に生きた私は、必ずや死した後には修羅の地獄へと落ちることでしょう。念仏など一切不要。さあ、お斬りくだされ」


 悪四郎は大きく太刀をふりあげ、両腕に力をこめ、息をのみこみ、しかしどういうわけか、はたと迷いが生じた。

「念仏が不要と? ならばそなた、毎日念仏をあげておったのは、なんのためか」


 新六は、静かに目を伏せた。

「与一殿が成仏のためなれば」

「なに? それはどういうわけじゃ」

 新六は居住まいを正し、息を深く吐いて後、ふるえる声で心のうちを述懐した。


「私は与一殿が憎くて殺害したのではございませぬ。つわものにとっていくさの庭での命のやりとりは、いたしかたあらぬこと。とはいえ、与一殿の苦しみ、恨み、心残りはいかばかりであったことか。それを思えば、胸が痛みまする。わが身は修羅の地獄に落ちようとも、与一殿には成仏を得ていただきたく、毎日心をこめて念仏いたしておりました。毎日の読経はそのため以外の、なにものでもございませぬ」


 聞くや、悪四郎は、がらりと刀を取り落とした。

 うつむいた新六の顔に、夢のなかの与一の面影が重なり、にじんで流れた。

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