第87話 悪四郎、与一の夢を見ること
新六は囚われの生活にもかかわらず、朝は必ず日の出とともに起きあがり、身なりを正し、澄みわたった声で法華経八巻を読誦した。
日がな一日、読経をつづけ、夜は日の入りとともに身を横たえた。
そうしてついに九ヶ月がすぎた。
◆
ある夜、悪四郎は夢を見た。
与一の夢である。
与一は首だけの凄惨な姿で現れた。
髪はざんばらにふり乱れ、血走った両の目は鬼火の如くに
どういうわけか、蒼ざめるほどに白い夕顔の花が一輪、与一の
悪四郎はふるえる両腕をさしのべ、愛息の首を胸にかき抱こうとしたが、一面の血糊で足元がぬめり、すこしも前に進むことができない。
あがいているうちに、呼吸まで苦しくなってきた。
「与一よぉ、与一よぉ」
老父はうめいた。
その悲しげな呼び声が届いたか、
「親父どの、親父どのがこの与一のことで、あまりにも嘆き苦しんでおられるがゆえに、私はいつまでたっても成仏することができませぬ。どうか仏の
それだけ言って、与一の首は苦しげに咳込みながら、血の海のなかへと沈んでいった。
(与一――)
悪四郎は、飛び込んだ。
赤黒く淀んだ海のなかへ、わが身を捨てる思いで。
血の海のどこからか、与一の咳の音が聞こえてくる。
途切れなく、聞こえつづけている。
悪四郎のまなうらに、ありありと思い浮かんだのは、幼童の与一が喘息の発作で苦しんでいる様子だった。
咳に
わが子を救いたい、救いたいのじゃ……
悪四郎はねっとりとした血の沼のなかへ、一心に両手をさしのばし、どろりと重たい血糊をかきわけながら、息子の首を懸命に探し求めた。
進むにつれ、次第に血の海は深さを増し、泥のような血が悪四郎の口元にまであふれてきた。
口じゅうに鉄を噛むような生臭い匂いが広がった。
それは与一が断末魔の時に味わった苦しみと、同じものなのだろうか。
溺れてゆく。
血の海へ溺れてゆく。
もがけばもがくほど、深みへとはまってゆく。
息ができない。
「ヨイチィ、ヨイチィッ」
張り裂けんばかりに絶叫しながら、悪四郎は跳ねあがるように飛び起きた。
全身汗だくで、呼吸はふいごのよう。
闇のなかで心配げに見守る妻と、目があった。
……聞けば、ひどくうなされていたらしい。
息も絶え絶えのかすれ声を絞り出し、悪四郎は水を求めた。
蒸し暑い、寝苦しい、真夏の晩。
庭先には夕顔の蒼白い花が一輪、鬼火のように
◆
翌朝、めざめるや、悪四郎はついに決断した。
(今日限りをもって、この馬鹿げた苦しみに決着をつけてくれるッ)
新六はいつものごとく、経を読んでいる最中であった。
ぎらりと白刃を抜き放ち、老人は若者の首に押しあてた。
「今日で終わりぞ。いつものごとくに念仏唱えィ。しまいまでは、待ってやる。身の
新六も、さすがは武者の子。
たじろぐことなく、落ちついていた。
その頬は痩せこけてしまったが、瞳はいっそうに澄んでいた。
「この時を、今か今かと待っておりました。今更、わが身のために念仏など唱えたところでなんになりましょう。今生、修羅道に生きた私は、必ずや死した後には修羅の地獄へと落ちることでしょう。念仏など一切不要。さあ、お斬りくだされ」
悪四郎は大きく太刀をふりあげ、両腕に力をこめ、息をのみこみ、しかしどういうわけか、はたと迷いが生じた。
「念仏が不要と? ならばそなた、毎日念仏をあげておったのは、なんのためか」
新六は、静かに目を伏せた。
「与一殿が成仏のためなれば」
「なに? それはどういうわけじゃ」
新六は居住まいを正し、息を深く吐いて後、ふるえる声で心のうちを述懐した。
「私は与一殿が憎くて殺害したのではございませぬ。つわものにとって
聞くや、悪四郎は、がらりと刀を取り落とした。
うつむいた新六の顔に、夢のなかの与一の面影が重なり、にじんで流れた。
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