第76話 景義、有常を労わること
治承四年という激動の年が、あわただしく暮れようとしていた。
いまだ町の体裁も成さぬ鎌倉の路地に、冬の、淡い光がさしていた。
「有常」
と、景義が、軽い声で呼んだ。
「はい」
「食い物は、なにが好きじゃ?」
有常は、すこし、考えた。
「……私は、特に好きなものは……」
「
「はい、嫌いではありません」
「よしよし。そなた、今日は、よくがんばった。今夜はご馳走を、腹いっぱい喰わしてやる」
景義は、有常の肩を引き寄せて、励ますように、ぽんぽんと叩いた。
がんばったと言われて、有常は、不思議な心地がした。
(……私は、突っ立っていただけでした……)
がんばったと言えば、景義や実正のほうが、自分のために、がんばってくれたのではないか……。
そういうことに、気が回る少年だった。
由比の屋敷に戻ると、有常は、離れの一間に連れて行かれた。
「『囚人刑』なので、これからは、そなたはできるだけ謹慎して、この一間で暮らすことになる」
「はい」
夕方になると、その一間に、お膳が運ばれてきた。
茶碗に高々と盛りあげた、
お刺身、煮魚。
とりどりの煮物に、汁物。
お膳の横には、大鍋いっぱいの、あわびのふくら煮。
蒸し菓子もある。餅もある。
常ならぬ、ご馳走であった。
景義も実正も、その狭い一間に入り込んで、一緒に箸を取った。
底冷えする寒い日だったはずなのに、急にその場が、汗ばむくらいに温かくなった。
「本当に、お前さんの命が助かって、よかったぞ。今夜は、そのお祝いじゃ。
腹いっぱい喰えよ」
有常の命の無事を、景義も実正も、心に染みるような笑顔を見せて、喜んでくれた。
それはおそらく、陽春丸の、哀しい出来事があったからであろう。
陽春丸を守り切れなかった、辛い思い、悔しい思い……
それゆえにこそ、有常の命が守られたことには、なおいっそう、ひとしおの喜びがあったのである。
「大おじ上、ありがとうございます。平次殿、ありがとうございます」
有常は行儀正しく、ひとりひとりにむかって、頭をさげた。
「さ、食おう」
景義の号令で、晩餐がはじまった。
有常は「いただきます」と両手を合わせ、真っ先に、あわびのふくら煮に、箸を伸ばした。
おおぶりで肉厚のあわびを、酒と水で、ふっくらと煮込んで、
歯ごたえある貝肉が、やわらかに、とろけるように、口のなかに崩れてゆく。
ひかえめな甘辛さに、ほんのりと磯の香りがただよって、舌がとろけるようだった。
「どうじゃ?」
「
世の中に、こんな美味しいものがあるのか……というほどに、有常は感動した。
「
「よし、俺も喰おう」
実正も、ふくら煮の大鍋を与えられ、ほくほく顔である。
ふと見ると、景義には、大鍋がない。
お膳の皿の上に、たった一切れ、乗っているだけである。
「伯父上、なんじゃ、少ないではないか」
実正は自分の鍋を取って、景義のほうに突き出した。
「いやいや、気を遣うな。わしは、
「なにを、こんな時くらい……伯父上の大好物じゃのに」
(え……)
景義の大好物と聞いて、有常は驚いた。
すぐに自分も、大鍋を手に取って、景義のほうに差し出した。
「大おじ上、食べてください」
景義は笑って、有常の
「いやいや、お前さんたちが食べればよい。有常は、今日がんばったし、実正は、いつもがんばってくれている。……わしは、お前さんたちが、幸せそうに食べるている姿を見られれば、充分じゃよ」
「そういうわけには、いかねぇよ。一切れだけでも……」
「……そうか。じゃ、一切れだけ、いただこうか」
「大おじ上、私のほうからも……」
「おう、すまぬの」
そうして、それぞれの鍋から、一切れずついただいて、三人とも幸せそうに舌鼓を打つのだった。
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