第70話 景義、舌鋒をふるうこと

 握りこんだ杖に、手のひらの汗がにじんだ。

 烏帽子からしたたり落ちる汗が、次々と地面に降りそそぐ。

 助秋がきれを差し伸べて額をぬぐうのに任せると、景義は一息つき、声の調子を変えた。


「待たれよ。お待ちくだされ。みなさま、思い出していただきたいのは、保元合戦のことでござります。あの合戦でわしと景親は、源家の御旗みはたのもと、獅子奮迅の働きをいたしました。

 保元の合戦でも、平治の合戦でも、あのふたつの大戦において、景親が源家のために命がけで戦ったは、周知の事実。どうかその功を思し召されて、死罪を免じ、寛容なるご裁定を……」

 怒号は鳴り止まなかった。

 しかし景義は衆に負けじと、なお声を張りあげた。


「みなの衆。わしらはみな……もちろん景親も、みな保元平治の大乱を、ともに戦い抜いた戦友ではござりませぬか。思い返してもみてくだされ。

 あの保元の折、最強のつわもの――八郎為朝公との戦いに敗れたわしの命を、弟景親は救ってくれました。それはみなの衆のよくよく知るところ。なれば今度こたびはわしが、弟を助けなくてはならぬのです。

 命に関わる恩は、必ず返さねばなりませぬ。それが人の歩むべき道理というもの。そのことにはみなさまも反対なさらぬであろう。どうかみなさまの戦友である、この景義に、恩を返させてくだされ。人の道を歩ませてくだされ」


「そは、御辺ごへんの勝手」

「なんという暴論」

 轟々と非難の声のあがるなか、景義は救いを求めるように、地下じげから殿上を、頼朝の顔を祈るように見あげた。


 そこはあの伊豆山の、侘しい山家ではなかった。

 今や万騎の大将軍となった頼朝の仕事は、私情によらず、御家人たちの心をじゅうぶんに汲んで、ものごとの筋道を裁定することにある。

 みずからが公正の代理人でなければ、いかに多くの猛者たちをひとつにまとめていくことができようか。


 頼朝は厳しい顔で、首を横にふった。

「長江太郎にことわりあり。景親の誅罰ちゅうばつは、御家人みなみなの総意である」

「無理は承知、そこをどうか……」

 なおもみっともなく景義は、荒れた庭土に額をすりつけた。

鬼武者おにむしゃさまッ」

 かれは頼朝の幼名を叫んだ。

 ふたりのあいだに流れる、熱い血のかよった、古い絆を呼び戻そうとしたのである。

 もし、ここが伊豆の山家であり、ここにいるのが身内の者のみであれば、頼朝は景義の要求を聞き入れ、景親に赦免を与えたかもしれない。

 しかし、この満場の罵声のなかでは、それは無理であった。


 景義に、積極的に味方をする者は、現れない。

 激しい怒声とあざけりばかりが、景義の背中を打ちすえてゆく。


「……なれば……せめて、せめて幼い陽春丸の命だけは、なにとぞご赦免を」

 すると今度は庭じゅうが、気味の悪いほどに静まり返った。

 人々の総意を代弁するごとく、宿老のひとりが、重苦しく語りかけた。

「景親が為に、多くの者が子を失った。景親の子は、父の罪を負わねばならぬ」

 また、別の者が言った。

「あの戦場で、景親の子が佐殿にむかって弓を引いていたのを、多くの者がその目で見ておる。一度弓を引いた子は、必ず将来、仇を為すであろう」


 その理屈はもっともなところであり、目の前にある頼朝こそ、まさにその言葉の実例であった。

 二十年前、平家に弓を引いた子――すなわち頼朝は、今、ふたたび立ちあがり、平家に恐ろしい鉄槌を喰らわせたのである。


「佐殿はその折、元服されておられた。一人前の武者であられた。しかし陽春丸は、まだ元服さえしておらぬわらわですぞッ」

 声をふるわせ、景義は力説した。

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