第49話 頼朝軍、壊走すること

 敵方は勝ち戦の勢いに乗り、大将の景親も、その子陽春丸も、たびたび先陣に出ては矢を放った。

 佐々木五郎が、河村義秀が、首藤経俊が、入れ代わり立ち代り、思うがままに攻撃をしかけた。


 頼朝は多くの者たちに守られていたが、それでもなお、危険と無縁ではなかった。 

 敵の矢が雨のごとく、かれの頭上にも降りそそいだ。

「殿」

 身を挺して主を守ろうとした鬼武の背に、たちまち幾本もの矢が突き立った。

「アッ、鬼武」

 頼朝は叫んだが、雑色は泥のなかにうつ伏せたまま、ぴくりとも動かない。


 抱き起こそうとした頼朝を、藤九郎が背後からとどめた。

「佐殿、はやくお逃げくだされ」

「離せ、藤九郎。鬼武が……」

「佐殿、鬼武の働きを無駄になさるおつもりか」

「鬼武、鬼武」

 なおも叫びながら駆け寄ろうとする頼朝を、御家人や雑色たちが取り囲んで引き離した。

「おはやく」

「お逃げをッ」

 またしても矢の雨が激しく降りそそぎ、そのうちの一本が深々と、頼朝の鎧袖に突き立った。


 本能的に逃げ出した頼朝は、ほんの瞬間、ふり返った。

 鬼武は先ほどの格好のまま、泥のなかに突っ伏していた。

 流浪の二十年のあいだ、どんなたいへんな事件が起ころうとも頼朝のもとを離れず、寡黙につき従い、身のまわりの世話を焼いてくれたのは、かれである。

「忘れぬ……そなたの働き、けして忘れぬぞ」

 頼朝は走りながら、涙を浮かべながら、鬼武のために経文を唱えた。


 人々は馬を捨て、大鎧を捨て、太刀ばかりを身に帯び、杉木の立ちならぶ急勾配の斜面をじ昇った。

 雨のためにゆるんだ土は、武者たちの足を滑らせ、から回りさせた。

 雨を呑み、泥を喰らい、敵の矢風を背に受けながらの、決死の登攀とうはんであった。


 この険しすぎる斜面を前に、工藤一族の総領、工藤くどう茂光もちみつのぶくぶくと肥え太った巨体は、いかんともしがたかった。

 味方が次々とじ登ってゆくなか、ただただ体を斜面に押しつけ、もがくように泥をくばかりである。

 郎党たちが必死に下から押しあげたが、その体はなかなか持ちあがらない。


親光ちかみつ――」

 喉の奥から絞り出すような声で、茂光は息子を呼び寄せた。

 五郎親光はすぐさま滑り下りて、顔を寄せた。

「……この斜面は無理じゃ」

 と、茂光は、ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、息子の耳元で鋭く囁いた。「人手にかくな。我が首、討てィ」

「親父殿ォ……」

 親光はまったく躊躇ためらい、顔を歪めた。


――京から逃げ帰った時、平家の目からかばいだてしてかくまってくれたのは、まさにこの老父であった。

 のみならず、無謀と知りながらも親光の反平家の企てを全面的に支援してくれた。

 そんな大恩ある父をわが手にかけるなど、自分にはけしてできない。


 咄嗟に親光は、父の巨体の下に自分の体をねじり込ませ、一歩でも、半歩でも、父親を上へ持ちあげようと努力した。

 はたから見ていた郎党たちも、この可憐なまでの孝心を知り、みながみな団結して親光に加勢した。

 茂光の巨体が、動いた……すこしずつ、すこしずつ……だがその動きは、あまりにも鈍重だった。


「親光ッ、我を置き捨てよッ」

 だが親光は、なんと言われても、父の体を離さなかった。

 あらんかぎりの力で、上に向かって押しあげつづけた。

 郎党たちも一斉に声を合わせ、全身に力をこめた。

「愚か者が、愚か者が」

 茂光は肉厚のまぶたに涙をこぼしながら、息子の顔を手のひらで掴み、激しくゆさぶった。


「あッ」

 火傷するかと思うような熱い飛沫が顔じゅうに飛び散り、親光が気づいた時には、茂光は自分で自分の腹を真一文字に斬り裂いていた。

「親父殿……」

 赤黒い血とあぶらと臓物とが、ずるずると滲むように泥の上に広がってゆく。

「親父、親父どの……」

 血まみれになった息子の顔を、もはや虚ろな目で見つめ、茂光は言った。

「……親光……お前は自慢の息子ぞ…………佐殿に、奉公せよ。……信綱のぶつな……」

 男泣きに崩折れた親光を、郎党たちが引き離した。


 太刀を抜き放ったのは、茂光の孫、田代たしろの冠者かじゃ|信綱だった。

 かれはまだ元服したての若さ、幼さであるものの、体つきも胆力も並ではない。

 この信綱は、父の顔を知らずに育った。

 狩りの心構えも、獲物のさばき方も、祖父茂光が教えてくれた。

 その教えられた狩場での心構えのとおり、躊躇も臆病も心から追い払った信綱は、真正直に祖父の首を斬り落とした。


 ずっしりと重たい首を、五郎親光は汚泥のなかからかきあげた。

 かれは涙に狂いながら、飛び翔けるように斜面をよじのぼった。





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