第四章 大難星 (だいなんぼし)

第47話 頼朝、自刃を決意すること

第一部  戦 乱 編


 第四章 大 難 星




   一



 明けて二十四日。


 頼朝の本軍は、土肥の杣人そまびとたちに導かれ、地生じばえの者のみしか知らぬような、山中の細道を流離さすらっていた。


 度重なる敗走戦のなか、ある者は道を失い、ある者は敵の手にかかり、ある者は逃亡し、離散した。

 時とともに、人数は着実にぎ落とされていった。

 誰の鎧も重くずぶ濡れになり、矢傷刀傷にほつれ、ぼろぼろの泥まみれだった。

 馬もまた、その多くが失われていた。


 今は、敵の姿は見えなかった。

 宿老たちは行軍を停止させ、しばし休息をとらせた。

 誰もが、疲れきっていた。

 頼朝はようやく馬からおりると、大きな丸石の上によろよろと尻をつき、しばらくのあいだ放心した。

 雨まじりの谷風が横殴りに容赦なく吹きつけてくる。


 濡れそぼりながら、かれはようやくのこと、重たい唇を開いた。

「佐奈田与一は……、与一は如何いかがした……」

 誰も答えなかった。

「宗時は……、宗時……」

「三郎殿も、おそらくは……」

「ゥオフッッ」

 背後で叫び声があがった。

 ふりかえれば、北条時政が顔を両手で覆い、わが子を失った哀しみにむせんでいる。

 その父の背を抱く北条小四郎も、目を真赤に染めている。


 頼朝は、がっくりと肩を落とした。

「……もう、終わりだ……。私は駄目な男だ。やはり、くだらぬ流人ばらよ」

 吐き捨てるように言うと、深刻な顔つきで頭をかかえこんだ。

 藤九郎の見たという、その夢を力いっぱい信じて突き進んできた自分が、愚かしく、滑稽で、憐れに思えた。

 口中がからからに渇き切っているのに、涙のほうは目の端からとうとうと流れ落ちて、生ぬるく、唇を濡らした。


「そのようなれごとを……」

 と、佐々木の長兄、定綱が見かねて叱咤した。

「まだまだこれからでござります。三浦がおります。千葉がおります。もうひと合戦できましょうぞ」

 だが頼朝は焦点定まらぬ目で、力なく首を横にふった。


「平治合戦。あの時……そなたも覚えておろう……、合戦に破れた直後、父義朝は潔く腹を切ろうとした。しかし、一の郎党の政清がそれをいさめた。

 結局のところ、父上は再起に賭け、一行いっこうははるばる野間のま長田おさだ屋敷までのがれた。

 長田は味方のはずだった。それが密かに裏切って、父を騙し討ちにした。

 父は死ぬ時、さぞかし無念であったろう。合戦に敗れた直後に潔く腹を切っておれば、こんな惨めな死に方はしなかったと、さぞかし後悔したことだろう。私にとっては……」

 頼朝は、悲痛に顔を歪めた。

「今がその時よ」

 いそいそと、右脇の引合ひきあわせの紐を、ほどきはじめた。


 大きなしわくちゃの手が横から無遠慮に伸びてきて、頼朝の手をつかみとめた。

「佐殿、あやまちをされては困ります」

「放せ、悪四郎」

「いや、放しませぬ」

 ふたりは無言のまま睨みあった。

 この時、悪四郎の心中は尋常ではありえなかった。

 かれの十一番目の息子はすでに亡く、十二番目の息子の行方もわからなくなっている。


 老人は頼朝に顔を迫らせ、怒りを押し殺した声で、訥々とつとつと語った。

「ここで佐殿に死なれては、死んだ与一はどうなります。未来永劫、逆賊でございますか? 

『奴は逆賊の先駆けをして、愚かな死に方をした』と、平家にくみした馬鹿どもに笑われて、末代まで恥をさらす事になり申すか? それだけは絶対に許せませぬ。

 あなた様にしても同じでございましょう。逆賊として、末代に恥を残し申すか、それとも辛くも生き長らえて、平家をくつがえし申すか。どちらが正しいかは自明の理――生きても死にても、名こそ惜しけれ」

 熊蜂の唸るような声を絞り出し、悪四郎はその手に、ふるえるほどに力をこめた。


 悪四郎の手の上に、いまひとつの手が重ねられた。

 炎をなだめるような穏やかな手は、景義のものであった。

 かれは、静かな口調で滔々とうとうと説きかけた。


「義朝公は命を失いましたが、嫡男のあなた様が生き延びました。だが佐殿、あなた様には汚名を晴らしてくれる嫡男がございませぬ。義朝公と同じではございませぬ。自らの汚名を、みずからが晴らさねばならぬのです。

 今ここで、自分の汚名ばかりか、お父君の汚名をも晴らさぬまま、死にまするか? 尊き八幡太郎義家公のお血筋を、あなた様の代で絶やし、あの世でどのようにご先祖様方にお詫びいたしまする?」

 景義は決然と、首を横にふった。

「まだでございまする。まだその時ではありませぬぞ」


 土肥実平も太い腕を突き出し、その手を重ねた。

「私どもは全力で、佐殿を三浦か千葉へお逃がしいたしまする。海路をとりましょう。土肥の漁夫たちはみな気心しれた、私の配下です」

 藤九郎が、佐々木兄弟が、北条時政が、みな次々にぶ厚いたなごころを差し出し、今にもくず折れそうな頼朝の体を支えた。

「佐殿、まだ戦えまする」

「佐殿、死なんでくだされ」

「わしらは最後の一兵まで、佐殿をお守り申す」

「佐殿ッ」

 人々の熱い思いが怒濤となって、激しく降りしきる雨のごとくに頼朝の全身に打ちつけた。


 疾風が荒々しくこずえを揺さぶり、木々のいただきが折れんばかりにたわんで震えた。

 ……誰も、この戦いをあきらめてしまった者などいなかったのだ……自分のほかには……。

「そなたら……」

 涙をこらえ、ぐっと歯をくいしばり、頼朝は拳を握りしめた。


 かれは頭のなかに、必死に偉大なる父の背中を思い浮かべようとした。

 しかし追憶は真白な吹雪に閉ざされて、父の姿は浮んではこなかった。

 今こそ、父ではなく、かれ自身が決断を下さねばならなかった。


 懸命に、頼朝は声をふり絞った。

「そなたらの命、私が最後まで引き受ける。そなたらを逆賊とは呼ばせたくない」

「おおっ」

 武者たちの目に、輝きが戻った。

 頼朝は興奮にわれを忘れ、恥も外聞もなく、あらんかぎりの声を張りあげた。

「たのむ、私に……私に命を与えてくれェッッ」

 わらう者はいなかった。

 嘲る者もいなかった。

 武者たちは魂をこめ、一斉に呼応した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る