第46話 頼朝軍、崩れること

 血泥のなか、仰向けざまにひっくり返り、気を失っていた俣野五郎を、新五と新六が両側から助け起こした。


 この時、五郎の首に、激烈な痛みが走った。

 思わず手を当てると、ねっとりと血まみれである。

 泥土のなかから、与一の小腰刀を拾ってみれば、鞘の先端が無理に割れ、わずかに白い切ッ先が顔をのぞかせていた。

 与一の渾身の大力が、頑固にしがみつく鞘の尻を割り砕いていたのである。

「クソったれめ……」

 五郎はかすれ声で、忌々しげに吐き捨てた。


「長尾新六、佐奈田与一を討ち取ったりッ」

 この報せはすぐに両軍のあいだを駆け巡った。


 文三家安は、豪雨と、暗闇と、なだれのように襲い来る敵軍とで、主人あるじを見失い、必死にその姿を探しているところだった。

 かれは「アッ」と叫ぶや、猛然と敵陣に飛び込み、がむしゃらに切り結びながら『死なば一所』……


 ――ついに討ち死にした。





 やがて頼朝の本陣は、濁流のごとく押し寄せる敵の攻撃を防ぎもきれず、瓦解した。


 暴風雨吹き荒れる夜闇のなか、退却のかねがけたたましく鳴り響いている。

 敗残の兵達は必死の思いで、山伝いの道を南へ壊走した。

 夜明け近くにもなって、頼朝軍は土肥領、堀口に再布陣した。

 押し寄せる敵を一時的に防ぎ、頼朝を山中に逃がすための布陣である。


 天候は最悪であった。

 狂風が神経を煩わせ、雨がじわりじわり体から熱を奪い、疲労困憊こんぱいさせてゆく。

「頼朝じゃ、頼朝がいたぞォッ」

 戦場の一角では、景親軍の慌しい叫び声が飛び交っていた。


 その声は、長刀をふりまわす景廉の耳にも飛び込んできた。

(いかん、佐殿ッ)

 目の前の敵を力づくで押し倒しすと、景廉は頼朝の姿を探し、あえぐ疲馬に鞭打った。


 すでに夜は白み初めていた。

 ひとりの騎馬武者が、取り巻きに守られながら、叫んでいるのが見えた。

「われこそは、兵衛佐頼朝なりィッ」

 敵はわらわらと、悪虫でもたかるように増えに増え、群がりに群がっていた。

「あのみやこ風の立派な鎧は、頼朝に間違いあるまい」

「手柄はわが物ぞ」

「押し包め、押し包め」


 景廉は窮地に陥っているあるじを助けようと、無謀にも斬り込もうとした。

 その時、はるかに離れたその距離で、馬上の頼朝と目が合った……いや、目が合ったような……気がした。

 小昏おぐらい暁の光のもと、景廉は苛立たしげに首をふるって雨粒をふり払い、まばたきして今一度、探り見た。

 それは確かに、かれの佐殿ではなかった。


(――北条の三郎殿か)

 北条三郎宗時の一瞬のまなざしは、景廉にむかって、本物の頼朝を守ってくれと懇願していた。

 茫然となった景廉に、騎馬の敵兵が猛然と突っ込んできた。

 景廉はもどかしげに相手を押し離し、宝刀で突き倒した。


 ふたたび、高らかな若武者の声を、景廉は聞いた。

「われこそは、兵衛佐頼朝なり。卑しき賊軍ども、わが首欲しければ、奪ってみせよ」

 大潮に乗って遠ざかってゆく木っ端舟の如く、宗時の一陣は圧倒的な敵勢に押し包まれて、景廉の目前から消えていった。


(クソがッ。こんなものかッ、俺の力は、たったこの程度のものだったのかッ)

 こみあげてくる悔し涙を噛みしめ、自分に対する怒りにはらわたを煮えくり返らせながら、景廉はありったけの力で吠えた。

 目の前の闇が、かれの命を閉ざそうと無理やりにし迫ってくる。

 息を切らせつつ、悪夢のなかを溺れもがくように、景廉は死に物狂いで闘いつづけた。

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