七十五 翠令、佳卓の悩む姿を見る

佳卓かたく様!」


 翠令は思わず両手を胸の前で組む。


 ──ああ、これで事態が動く。


 しかし、佳卓は厳しい顔をしたままだ。暗い表情は何かを思い詰めているかのようにも見える。


「佳卓様?」


「あまり期待しないでくれ。方針は決まっても具体策が思い浮かばないんだ」


 佳卓の視線が床を彷徨う。


「どうにかしたい。円偉えんいを退けて錦濤きんとうの姫宮が京の都に戻れるように……。趙元ちょうげん朗風ろうふうの地位を安全なものにして……。それから竹の宮の姫君にもご静養できるような環境を整えて差し上げたい。それも白狼のためにも二人が共にいられるような環境を──」


「……」


 佳卓は苦しそうに息を吐きだす。


「私としては快刀乱麻を断つような案を翠令に示してやりたい──しかし、これといった妙案が思いつかないんだ」


 翠令もまた歯噛みする思いだ。たった一月かそこら時間を戻すだけなのに……。何もかもが変わってしまった今、それがこうも困難になろうとは。


 けれど……佳卓が東国から兵を率いて上京すれば……。


「佳卓様なら東国から私兵を募ることも容易たやすいはず、その軍勢で……」


「兄上は関所が問題だとおっしゃったろう?」


「確かに不鹿関は閉じられていますが……どうにかなりませんか?」


 佳卓が問い返す。


「どうにか、とは?」


「関所を通らなくても済む道を行くとか、関所など攻め落としてしまうとか」


 佳卓は喉を鳴らして微かに口元を緩めた。


「翠令は威勢がいいね」


「……」


「残念ながら前者は無理だね。翠令自身、ここまで歩いてみてどうだった?」


「確かに苦しい道のりでした……」


「そうだ。東国は遠い。この道のりを騎兵歩兵問わず武具を身に着けて進軍するとなると道は少しでも良くなければならない。整備された街道以外の道を選んで関所を避けようとする案は現実的じゃない」


「はい……」


「関所を攻め落とすこと自体は、やって出来ないことはない。兄上が言うよう、私の個人的な信頼で東国から兵を集めることは可能だし、私も武将として軍を率いるのはわりと得意な方なんでね」


 得意な方も何も彼ほどの名将はこの国にはいないだろうに。翠令は軽く笑んで頷いた。


「だが、それでは大義が立たない。関所破りの汚名は被りたくないところだ」


「大義など! あの男が間違っているのは明らかではありませんか!」


「まあね。ただ、私たちは私たちの正義を信じ込んでいるからそう思っているだけかもしれない」


「……」


 ですが! と反駁しかけて翠令は口を噤んだ。円偉を非難することは簡単だ。だが、自分にだって円偉を同じく鄙の人々を軽んじるところはあったのだ。

 人は自分だけの正義にはまり込む。その独善に陥らずに歩むために他者との対話が必要だ。


 しかし……その相手が、他者と相容れようとしない円偉である場合には?


「円偉も自分の正義に固執する。あの男が相手との話し合いを拒むのです!」


「そうだね。だから彼を交渉の場に無理やりにでも引きずり出すには、些か手荒な手段も取らないわけにはいかない。だから、兵を揃えて圧力をかけざるを得ない。──ただ、ここで、勘違いのないよう再び念を押しておくが」


「はい……」


「私たちは自分の大義を押し通そうとして兵を挙げるのではなく、どちらに大義があるかの交渉に臨むために兵を揃えるんだ。これを挙兵の目的に掲げる。でないと、佳卓という男が反旗を翻したというだけのことになってしまう……」


「ただの賊軍となりますね」


「うん、そうだ。翠令は飲み込みが早いね」


 佳卓は翠令に軽く笑んで見せてから、また真面目な顔に戻る。


「今上帝の勅命があれば一番なのだが……」


「帝のご体調はかなりお悪くていらっしゃるようです。それに今上帝は円偉を傅育官としてお育ちで、円偉には反対しづらいのではないでしょうか。とはいえ、一方で、今の東宮とされている竹の宮の姫君は円偉を排斥せよと明確にお考えです」


「竹の宮の姫君もおおせだが……本来の皇統は、錦濤の姫宮の父君に引き継がれるべきだったからね。今上帝もご自分に御子が生まれる前に、姫宮に譲位して正しい皇統に帝位を戻したいというご意向を口にされていらした」


「そう、そうでした!」


「今上帝のかねてからのご意向からすると、いきなり円偉を害するのではなく交渉するためであれば……武装して京に上るのもぎりぎり許されるところではあるかな……。もう一押し、積極的なご命令とまでいかずとも、せめて黙認頂けるという確証があればより望ましいが……まあ、これは仕方ないか……」


「……」


 佳卓は深い息を吐いて、話題を転じた。賊軍のそしりはぎりぎり免れることができたとしても、現在のところ具体的に立ちはだかるのは──。


「で、問題は関所だ。円偉を交渉の場に引きずり出せるほどにまとまった数の兵を、関所を打ち破るのではなく、穏便な方法で通過させる。さて……」


 しかし、佳卓は俯くと額に手をやり、ため息をつきながら零れていた髪を後ろに撫でつけた。


「申し訳ないが、今の私に思いつくことがない……」


 翠令が肩を落とすのを佳卓は気にしたようで、再び詫びの言葉を口にする。


「済まないね。結局、兄上が想像した以上には話が進まなくて。こんな思いまでして翠令が私に正しい情報を伝えに来てくれたのに。期待に応えられず申し訳ない……」


 佳卓は辛そうだった。


「そんなことは……ありません……」


「私は何でもできると思われがちだが、出来ることと出来ないこととでは出来ないことの方が多い人間なんだよ。所詮は無力な存在だ……」


 同じようなことを以前も言っていた。確か白狼と三人で酒を呑みかわしていた時だと思う。そのときは、あまり考えずに聞き流していた。思い返してみれば、その時の翠令は佳卓に何かを期待していたわけではないからだろう。


 だが、今は違う。確かに、ここに来るまで佳卓に会いさえすれば全てが解決するのだという期待をしてはいた。佳卓が何かと優秀なだけに、彼なら何でも出来てしまうと勝手に思い描いてしまう。


 だが、翠令は、佳卓にそれが出来ないからと言って、そんな顔をして欲しいわけでは決してない。


「佳卓様……。そんな悲しそうな顔をなさらないでください……」


 佳卓はふっと自分の手を顔にあてた。


「そんな表情でいるかね? いや、そんな情けない顔をしている場合じゃないね。とにかく手立てを考えよう。ただ、もう夜も更けて来た。いつまでも女君の寝室に男の私がいるべきじゃない。私も部屋に戻るから、翠令も早くお休み。身体も癒えていないのに長話をさせて悪かった」


「いえ……。もうしばらく……」


「うん? そうだね、もうしばらく頑張れば名案が思い付くかもしれないと翠令も期待するのだろうが……。どうしてもこれという具体案が思いつかない。悪いが今夜はこれで区切りを付けよう」


「いえ……」


 そうじゃない。都の政変への対処を知りたいと思うが、今、翠令の心をとらえているのはそんなことじゃない。


「行かないで……」


 ここで佳卓の背中を見送るのは、耐えられないほどに切ない気がする。


 苦しい旅だった。錦濤の姫宮と竹の宮の姫君の御為であり、竹の宮がおっしゃるように民のことを思えばこそ行かなくてはならないと思った。歯を食いしばってここまで来た。

 ここに来て解決策が見つからないと佳卓の口から聞くのは確かに辛い。

 けれど、佳卓自身に失望しているわけではない。自分は、単に解決策だけを求めてここに来たわけじゃないのだ。


 疲労と発熱の中でも、佳卓に会いたいという強く狂おしい願いが湧き上がっていた。その想いがここまで自分を運んでくれたような気がする。


「行かないで……行かないでください。どうか、私の傍にいて……」


 そして、貴方も一人にならないで。そんな寂しそうな顔で、この夜を独りで過ごさないで……。


「……」


 佳卓は目を見開いて翠令を見つめ、そして額に手を当てた。


「まいったな……。翠令が随分艶っぽい。そんなことでは、私はますますここにはいられない」


「佳卓様……」


 佳卓は自嘲めいた表情の後、一度天井を仰いだ。そして崩れるように首を戻す。


「私はね、何もかも器用にこなせる男じゃないんだよ」


 彼は顎を引き、そして真っ直ぐな視線を翠令に向けた。


「好きだよ、翠令。貴女が好きだ」


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