七十四 翠令、事情を伝える(二)

 

「だがね、翠令」


 佳卓かたくは翠令を見つめた。


「いくら自分が嫌いでも、私は私でしかないからね。少しでもましな人間になれるよう自分を変えるしかない。鄙を見下し、自分本位なばかりだった未熟な私にできたこともそれだけだった」


 「それだけ」と佳卓は言うが、その努力は実っている。佳卓は確かに東国の女君を軽く見ていた若者だったが、今ではここまで東国の文化に馴染んでいる。


「幸いなことに、私は私を変える環境に恵まれた。まず、東国で、かの女君の夫という良き模倣相手を得た。頼もしくて思慮深い、あんな大人の男になろうと私は願った。趙元ちょうげん朗風ろうふうも、麾下を危険に晒すような無能なお坊ちゃんだった私を叱ってくれた」


 それから、と佳卓は白狼の名を挙げる。


「白狼と競った経験も大きいな」


「白狼?」


「白狼は別に私を変えようとしてるわけじゃないんだろうが、彼の存在はとても刺激的だ。彼について考えていると、私は私一人では得られなかったものが見えるようになる」


「それは……?」


「翠令にも話しただろう? 何故盗賊の彼が民から愛されるのか、それを考えると民にとって望ましい為政者とは何かという問題に突き当たる。彼と言う好敵手がいなければ、思い至らなかったことだ」


「ああ……なるほど……」


「それから、今の私にとっては誰よりも翠令……」


 私……と呟いて目を見開く翠令を、佳卓が真っ直ぐに見つめて来る。


「私にだって円偉えんいと似ている部分がある。白狼を捕らえるために、姫宮を囮に使おうとしていた。あの時の私も人間を盤上の駒としか考えない、ろくでもない人間だったと思う。だから──」


 佳卓は深い微笑みを浮かべた。


「感謝しているんだよ、翠令。私に刃を突きつけて諫めてくれたことを」


 佳卓は無防備なほど柔らかい笑みを翠令に向けた。ただ、そんな自分に気づくやいなや照れてしまったようで、慌てていつもの彼らしい皮肉気な調子に戻る。


「おかげで私は円偉とはかなり違う人間になれたようだからね。翠令に嫌われなくて済んだようだ。……だよな? 翠令。翠令は円偉が嫌いでも私についてはそうじゃない。それでいいんだよな?」


 佳卓の大袈裟に確かめる声音が可笑しくて翠令は笑う。


「さようでございます。さようでございますとも」


 佳卓は大げさに息を吐いて見せた。


「それは、よかった」


「円偉は都の装束以外の服など着ないでしょうし、鄙の言葉も喋りません──東国の服を着てこちらの言葉を話す佳卓様は……東国生まれの別人かと思いました」


「なかなか最初は上手く話せなくて、よくこちらの民に笑われたよ。まあ、長く取り組んで来ればそれなりに習熟する……」


 佳卓は翠令に向かって笑む。


「翠令も今、自分のことを鼻持ちならないと思ったならこれから変わればいい。最初から人格が整った人間などいはしない。大事なことは、変わりたいという願いを持つことだ」


 大丈夫だと佳卓は請け合った。


「翠令は飲み込みが早いからね。弓の練習を見てて思ったし燕語も出来るんだろう? 取り組んでみれば東国の言葉だって話せるようになる」


 翠令も「精進します」と頷いた。


 佳卓は指を折って数える。


「翠令は錦濤きんとうで使われている言葉と燕語、それから東国の言葉を習得する……と。すると三つの言葉を身に着けることになるね」


「そうですね」


「翠令がますます魅力的になるね。東国の言葉を話せるようになることで東国の男に気に入られて、翠令の心がその男に奪われることのないように気を付けないと」


 佳卓がおどけるので、翠令も苦笑する。


「そんな……」


「変わろうとする人間は魅力的だ。そうやって変わることで豊かな個性がつくられるから」


 翠令が怪訝な気持ちで佳卓を見ると、彼は真剣な顔つきとなった。


「人が変わると言ってもそれまでの人格が消えてなくなるわけじゃない。翠令が東国の言葉を習得しても錦濤の言葉を失わないのと同じでね。変化してきた過程は残り、積み重なる」


「……」


「人間の個性というのは、生まれつきのそのままではなく、人とのかかわりの中で変わってきたその蓄積だと思う。──だから、円偉は私を手に入れることはできない」


「それは……?」


「私という個性は、こうして他人から影響を受けたり育まれたりして出来上がったものだ。円偉がいかに私を気に入り、私を手元に置いて自在に操ろうとしてもあまり意味はない。私を形作っているのは私にとって重要な人々との関係性だからね。──東国の民や趙元に朗風、白狼、それから誰よりも翠令──こういう私にとって大切な人々から私だけを切り離しても、私を手に入れられるわけじゃない。そんな私はもう私ではなく、ただの私の抜け殻だ」


 翠令も頷く。円偉が佳卓をそうやって取り込もうとしても、それは佳卓ではない。白狼の言葉を借りれば、鏡に映った円偉自身の影に過ぎない。佳卓の兄が言ったように、円偉は貫徹しえない矛盾した望みを抱いている。

 

「私の思うところだが……自分が変わってきた蓄積を振り返り、人が変化できることを実感したとき、それが他者を想像することに繋がるのではないかと思う」


 訝しく思う翠令に佳卓は笑んだ。


「未熟に見える他人は過去の私に似ているし、立派に見える他人はこれから私がなりたい人物だ」


 後者は、東国の女君の夫のことだろう。


「……そう自分に引き付けて考えることもできますね。ええ、確かに相手を身近に想像しやすくなる……」


「自分が変わり得るのなら、他人はかつての自分であり将来の自分だと思うようななる。もっと言えば……。他人とは、自分がたまたま今そうならなかっただけで、何かが違っていたらひょっとしていたらそうなっていた自分かもしれないと思うようになる」


「ええと……?」


「私はたまたま京の貴族の子息だが、東国に生まれていたら東国の言葉を話す別人だったかもしれないだろう? そういうことだ」


 それは、今の佳卓を愛する翠令には寂しい気がする。その気持ちが表情にも出てしまっていたらしく、佳卓が小さく首を振った。


「大丈夫だよ、翠令。今の私は当分こうだから。京の貴族の生まれで、多くの人の影響を受けて……。翠令に刀で脅されたのが今でも怖くて、翠令の前で大人しくしているばかりの小心者の男だ」


 最後は余計な冗談だと翠令が軽くにらむのに、佳卓も肩を竦めて見せた。そして話題を真面目なものに戻す。


「ただ……。今の私はたまたま翠令達と出会ってこういう個性の人間だが、この偶然は何で起こったんだろうね。つまり、私と他人を分けているのは何なのだろう?」


「……」


「例えば生まれ育った土地の風景であったり、気候であったり、産業であったり、幼い頃から耳で親しんできた神話だったり……そういったものが違えば、育まれる個性も違ってくるだろう」


「風土記に載っていそうなものですね」


 そうそうと佳卓は笑う。


「『自分は何だろう』という問いは、『どうして他人は他人なのだろう』という問いに繋がり、じゃあ『その他人を形作っているものは何だろう』という問いに至る。だから、その民を形作っている文化を知ろうとすることはとても面白い」


 ああ、そうかと翠令も思う。


「私もそういったものを知るのは楽しいです。その理由を何故なのか佳卓様のように考えたことはありませんでしたが、そう説いて聞くとなるほどと思います」


「翠令もそうだが、錦濤の姫宮も同じでいらっしゃるだろうね」


「そうですね。姫宮も風土記や説話、それ以外にも見知らぬ人や土地を知ることが大好きでいらっしゃる」


「姫宮もご自分を変えようとされてきた方だ。だから、自己と同様に他者に、そして他者を形作る文化に興味をお持ちでいらっしゃる」


「たしかに姫宮は『ぼうっとした御子』で、錦濤の街の者が変わっていただかなくてはと働きかけたものでございます」


「うん。翠令の言うとおり、周囲が姫宮にそう働きかけた。一方で、姫君にも『変わらなければならない』という強いお気持ちがあったんだろう。おそらく、幼い頃から姫宮はこのままでは駄目で人に好かれなければという気持ちがお強かったはずだ」


 翠令は、佳卓の言葉に出て来た「駄目だ」という表現に当惑する。


「姫宮がご自分を『駄目だ』とお感じだったとはあまり思えませんが……。ぼうっとした御子であられた時から無邪気な方でしたし、周囲も慈しんでお育てしましたし……」


「もちろんその事実を否定しない。ただ、姫宮は利発な方で、自分が流罪人の子という負い目も早くからお持ちだっただろう」


 翠令は少しムッとする。


「負い目など……錦濤の街の者は皆、それが冤罪に過ぎないと分かっておりました。姫宮を非難がましい目で見た者など一人もおりません」


 佳卓は苦く笑って「わかってる、わかってる」と言いたげに首を縦に振った。


「うん、そう思っているよ」


「でしたら……」


「だがね、翠令。姫宮は自分が、他の子どもと違って自分に両親がいないことはもちろんお分かりだっただろう。他の子にはいる父も母もおらず、そして、どちらも京で生まれたのに、西国に流され彼の地で没した。そしてご自身は両親が眠る土地からも離れて錦濤の街で暮らしている──御年十にして流転を重ねてこられている」


「……そうですね」


「いかに幼くとも思う所はおありだろう」


 確かに、姫宮は親のいない孤児であられた。ただでさえ幼児は親にしがみつくようにして過ごすものだが、姫宮は普通の幼子以上に心細くていらした。

 一方で、それを周囲に無邪気に訴えることができるほど、ご自身が単純な立場ではないことも聡い姫宮ならお気づきであっただろう……。


「だから、姫宮は錦濤の大人達が罪人の遺児に注いでくれる愛情の有難味をよく分かっておられた」


「……」


「人間を大きく変えるのは敵対する相手より、自分に愛情をかけてくれる相手だ。特に、姫宮は察しの良い御子だ。錦濤の人々が姫君に好奇心を持たせようと珍しいものを持ってくれば、その期待に応じて面白がらなければならないくらいのことは理解なされたはずだ」


「その言いようは……。まるで姫宮が大人の顔色を伺いながらおどおど暮らしていらっしゃったかのように聞こえます」


 佳卓は苦笑した。


「ちょっと斜に構えた言い方だね。ただ、私が言いたかったのは、姫宮もまた、自分が嫌いだった私と同じように、変わらなくてはという意思をお持ちだったということだよ」


「……」


 翠令が初めて姫宮にお会いしたのは御年三歳の頃。当時の翠令自身も十歳をいくらか過ぎた少女に過ぎなかった。畏れ多くも妹のような年回りで、しかも姫君は自分にとても懐いてくれた。だから、翠令は、天涯孤独の姫宮の心細さや、周囲の期待に沿おうとする健気さをあまり気にしたことがなかった……。


「悪いことじゃないんだ、翠令。人間はいつまでも幼児ではいられないし、いるべきでもない。周囲に何を望まれているかをきちんと理解し、自分の意思をそれとすり合わせながら、己という存在を作り上げていく。それは誰にとっても大きな課題だ」


「……」


「そして、姫宮のこれまでは幸福なものだったと思う。変わりたいと願う姫宮と、変えて差し上げなくてはと思った錦濤の街の者たち。その中で、今の姫宮は賢く思いやり深い少女にお育ちになった」


「そうであられたなら……良かったのですが……」


「錦濤の商人たちの意図するところが好奇心を育むというところは大正解だったと思う。『はしたないほど目端が利いて、お口が回る』という、錦濤の商家の娘のような姫宮のご性格も、錦濤の街の大人達の愛情に応えたものだと思うよ」


「されど、そのご性格のせいでお口が過ぎてしまい、このような目に……」


「あの昭陽舎でのご発言は確かにいただけない。円偉には残酷であったともいえる。だが、あの時も言ったように年齢を重ねれば、姫宮だって自ずと清濁併せ吞む器量も身に着けていかれたはずなんだ」


 翠令はぐいっと顎を上げた。


「さようです! 私が憤りを感じるのはそこです。あの昭陽舎の件では確かに姫宮もお悪かったかもしれません。けれども、ただあの一件だけで、東宮を廃するなど大それたことをするなどと……。関係の改善を図ることもせず、一方的に呪詛などとありもしない無実の罪をでっちあげて!」


 佳卓の顔つきも厳しくなる。


「円偉には人間が変化しながら生きるということが想像できないのだろう。彼は、自分自身のことを、哲学書で真理を学び、鄙の者と触れ合って徳が保証された完全な存在だと思っているから。それ以前の幼かった自分もいたはずだが彼の中では無かったものになっており、これから模倣したいと思う相手もいない。彼は自分を既に完成された存在だと思い込んでいる。──だから、他人に変化を期待せず、己の独断で切り捨てることができると思ってる」


「なんと傲慢な!」


 翠令は憤激の余り大きく首を振った。それが身体に触ったらしい。ぐらりと身体が揺れ床に崩れ落ちそうになったところを、佳卓が素早く両腕で抱き留めてくれた。


「大丈夫か? 翠令。少し呼吸を整えて……」 


「いえ、いいえっ。私のことなどよりも!」


 翠令は佳卓の腕の中でも、彼の顔を見上げて大声で話すことを止めない。


「ああも他者に関心のない独善的な男が居座っているなら、姫宮はどうなるのでございますか! いえ、姫宮だけではありません。趙元様をはじめとする近衛の者たち、それから白狼に竹の宮の姫君……。そう竹の宮の姫君……姫君は、帝の直宮であり現在東宮に擬されているお立場から、朝廷を、ひいてはこの国の民を案じておられます!」


 佳卓は無言でそっと翠令を姿勢よく座らせると、自分も居住まいを正して腕を組んだ。そして、瞑目して息を吐く。


「……」


 左大臣家の次男坊とはいえ、彼は本来武門の長。そして、長らく円偉と双璧と並び称されてきた人物だった。


「円偉を優れた人物だと思っていた。いや、優れた学才の持ち主であることは今も変わらぬ事実だろう。だが……」


 閉じられていた瞼がすうっと開き、切れ長の目の中の黒々とした瞳が宙の一点を睨み据える。その双眸に尋常ならざる強い光が宿り、「その為人、鬼神の如し」と謳われるのも納得の鬼火のように恐ろしい気迫が、彼の身の内から立ち上っている。


「円偉がずっと大学寮で学問を講じているだけならともかくも。ここまで他者を拒絶する人間性が明らかになった以上、円偉は政に関わるべきではない。竹の宮の姫君の言葉は正しい──」


 佳卓は低く固く、峻厳な声で短く言いきった。


「円偉を朝廷から排さなければならない」


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