七十三 翠令、事情を伝える(一)

 熱い。


 身体が火を噴くようだ。それなのに、がたがたと寒気がする。

 目を開けることも出来ず何も見ていないはずなのに、視界がぐるんぐるんと回るかのような眩暈を感じる。


 助けて……と口にしたい。なのに、舌は口腔に糊で貼り付けられたように重い。そして、もう、唇一つ動かせない。


 その、翠令の動かぬ唇が何者かによってそうっと、優しく柔らかく押し広げられた。


「……⁈」


 何か──快い冷たさの何かが喉を通る。それは、爽やかで甘露のように美味しい──水だった。


 翠令がごくりと飲み込むと、また同じように水が与えらえる。二、三度繰り返し、力を得た翠令は目を開く。


「……!」


 自分の顔の至近距離に佳卓かたくの顔があった。夢で見たその顔。切れ長の怜悧な目元。

 その瞳に翠令が今まで見たことのない強く不安げな感情が浮かんでいる。他にも少し印象が異なるところがあるけれど……。

 しかしながら佳卓本人であることに間違いない。


 そんな佳卓は翠令と視線が合うなり破顔した。


「ああ、翠令! 気が付いたか! 良かった……」


 佳卓は心から安堵したように目を細めると、肩で大きく息を吐く。その顔が翠令の間近にあるのは、彼が翠令の上半身を持ち上げて彼女を胸に抱いているからだった。


 ぼうっと見上げる翠令を、佳卓は再び顔を寄せて覗き込む。


「翠令の高熱が酷くて……。うなされながら水を求めるので、器に汲んで飲ませようとしたのだが……上手くいかなくてね。誰かが口移しでということになって、それで私が」


「……」


「済まないね。女君に許しもなく口づけとは。だが他の誰にもさせたくなかったのでね。私で我慢して欲しい」


 もちろんです……と言いかけた翠令の声は嗚咽で言葉にならない。


 佳卓が男にしては細く長い指で翠令の目許を拭う。自分は涙を流していたらしい。


 一言も言葉を発しない翠令に佳卓は心配になったようだった。


「翠令? 翠令なんだよな?」


 翠令は精一杯声を張り上げた。


「はい、翠令です」


 佳卓はもう一度大きく息を吐くと、翠令を抱きしめた。息が詰まるほど力のこもった抱擁に、佳卓の激しい感情が表れる。


「翠令! あんまり衰弱が酷いからどうにかなるのではないかと心配した……。良かった……」


 何度か大きな呼吸を繰り返した後、佳卓はそうっと翠令を自分の身体から離して褥に横たえ始めた。翠令は思わず、佳卓の唇に指をやる。ついさっきまで自分の唇に重ねられていたはずのそれに。


 佳卓は少し驚いた顔をし、唇に添えられた翠令の指に、自分の指を絡ませて大きく笑んだ。


「翠令が随分と艶っぽいことをする」


 そして翠令の手を柔らかく握って自分の口元から静かに剥しはじめた。今度は翠令の方から身を躍らせて佳卓に抱き付いた。


「お会いしたかった!」


 佳卓も再び翠令の背に腕を回して強く抱きしめてくれる。


「うん……よく来た……よく目を覚ましてくれたね……」


 一呼吸空けて、佳卓は翠令の項に問う。


「いったい何があった? 翠令がこんなになってまで東国に来るなんて……」


 翠令ははっと身を解き、片腕を床について身体を支えると、片方の手で佳卓の胸元を掴み大声で叫ぶ。


「姫宮が! 姫君が! いいえ、円偉えんいが……!」


「翠令……ゆっくり話すといい」


「佳卓様、朝廷からの使者を信じてそのまま都に戻らないでください。その情報は偽りです!」


「分かった。翠令の言う方を信じる。私はどこにも行かない。だから落ち着いて……」


 翠令は佳卓が動かないということだけを確かめて、意識を手放した。


 人の声がする。

 翠令は焦点のぼやけた目でそちらをみた。「ああ、自分は佳卓様に会えたのだ」と喜ぶ間もなく、その佳卓に似た声が庭に向かって東国の言葉を喋っているのに気づく。

 枕許に座るこの人物は佳卓ではないのか? さっきお会いしたはずだったのは……あの佳卓の姿もまた、自分の願望が見せた幻だったのだろうか。


「翠令?」


 佳卓が翠令の視線に気づいて振り向いた。


「佳卓様? 佳卓様なんですね?」


「ああ、私だよ。どうした?」


「東国の言葉を喋っておられたので……」


「ああ、こちらにいるときはこちらの言葉で相手と話すんだ。翠令の身の回りのことをここの役人たちに頼んでいたんだよ」


 佳卓は翠令に向き直る。翠令の視界で彼の姿がはっきりと像を結んだ。


「東国にいると私は格好もこちら風に改めているんだが……この格好で構わないかね?」


「いえ……どうしてです?」


「こちらでは特に髪を結わないんだ。このように首の後ろで一つに括った格好は、京の女君にとても見せられない無作法なものだろう」


錦濤きんとうには色んな格好の人々がいましたから。特に気になりません。少し印象が違うなと思いますが……。ともあれ佳卓様で……良かった……」


「私は翠令の目の前にいるよ、安心おし」


「はい……」


 佳卓は翠令の様子を慎重に観察しながら確かめる。


「話は……できそうかね?」


「ええ、今はだいぶ身体も楽です。お話しなければ……」


 翠令は褥から半身を起こした。佳卓がすぐ近くまで膝を進めて片手を背に添えてくれる。


 翠令は順を追って話していく。錦濤の姫宮が呪詛の疑いをかけられ捕らえられたこと。竹の宮の姫君が、ご体調など考慮されずに再び御所に移されたこと……そして、佳卓については文官の道しか残されていないということ。


 趙元、朗風,そして佳卓の兄について、佳卓の気に掛かりそうなこと全て思い出して伝えた。


 話が進むにつれ佳卓の目が大きく見開かれていく。そして円偉の陰謀の全容が明らかになった時、彼は呻いた。


「なんということ……」


 それきり彼の口は小さく開いたまま動かない。一方で、瞳が小刻みに、けれども激しく震えていた。


「くそっ!」


 佳卓は唇を噛み締めて目を伏せ、そして、砕けそうなほど強く自分の拳を握りしめた。


 円偉への憤りか、食い止められなかった自分に対する自責の念か。彼の心の中で様々な憤激が吹き荒れているのが翠令にも分かる。


「一生の不覚だ! 悔しくてたまらない」


「……」


 佳卓は苦しそうだった。


「円偉に完全にしてやられらた」


「……」


「私の方も、東国で京の都のことをずっと心配していた。何かを見落としていた気がずっとしていたし、それが何なのか考え続けていた……。しかし……」


 彼は「思い込みに囚われてしまっていた」と絞り出すように言いながら、改めて拳に力を入れる。


「私は、錦濤の姫宮の寵を円偉と私とで争うという構図しか考えていなかった。だから、円偉が私ではなく姫宮の方をどうにかするとは全く思いつかなかった……」


 佳卓は片手を額から髪の中に差し入れ、掻きむしった。


「兄君の見立てどおりだと私も思う。円偉が錦濤の姫宮を恨んでいたことや、竹の宮の姫君へ想いを寄せていたこともあろうが、根底にはこの私への執着があってのことだろう……」


 そして、彼は翠令に許しを請う。


「翠令、済まない。私には先を読むことができなかった……」


「……」


「皆に困難を味わわせ、翠令には苦しい旅をさせてしまったね……辛い思いをさせて悪かった……」


 翠令は慌てて首を振る。


「そんな、佳卓様がお謝りになることではありません!」


「だが……」


「錦濤の姫宮をここまで侮るようなこと、あってはならぬことです。そもそもがあってはならぬことなのですから、見通せなくて当然です」


 佳卓は少しばかり表情を緩めて「明快な論旨だね、翠令らしい」と独り言ちた。


 自分の言葉が彼を楽にしたと見るや、翠令は機を逃さず、畳み込むように続ける。これ以上、彼に自分を責めて欲しくない。


「佳卓様、起きてしまったことは仕方がありません。これからを最善にすることを考えましょう」


 翠令は佳卓にどのように伝わっているかを確認しなくてはと思う。


「朝廷からの使者……いいえ、円偉からの使者とは何と伝えて来たのですか?」


「兄上の予想通りだ。『錦濤の姫宮がご病気だから取り急ぎ京に戻れ』と。だから、東国の奥から急いで馬を駆けさせて来たんだ。それで、翠令にもここで会えたのだが……」


「そうでしたか……」


 佳卓が、自分も辛そうな顔で翠令を見る。


「東国の奥から『京に急いで戻らなければ』とこの国の官衙まで馬を飛ばしてきた。ここで一泊しようと思ったら、『怪しい物乞いがいるから見てくれ』と言われてね。ところが会ってみたら翠令じゃないか。高熱を出して、もうそれが何日も続いているという……」


 翠令、と佳卓は翠令の頬を優しく撫でた。


「自分で気づいているか? かなり面窶れしている」


 翠令もまた、佳卓のなぞった後を辿るように自分の頬に手をやった。たしかにげっそりとしているような感触がある。


 佳卓が深々と息を吐いた。


「とにかく元気になって欲しいと、ただもうそれだけを案じていた。何事かと思っていたら……私に原因があったとは……」


 佳卓はよほど悔いがあるのだろう。再び自分が防げなかったという自責の言葉を口にしてしまう。


「そんなことは佳卓様の責ではありません。あの円偉が悪いのです……」


「だが……」


「佳卓様への執着にしても、兄君がおっしゃったように円偉は佳卓様と言う個性を愛しているわけではありません。ただ自分と似ている存在を手元に置きたいだけです。これは白狼もおかしいと言っていました。『そんなに自分と似ている人間が欲しいなら鏡に向かって話していればいい』と」


「白狼らしい言いようだ」


「竹の宮の姫君についてもそうです。円偉は自分の勧める本を読んで、自分に物申さない姫君を御しやすいと思っている。要は舐めているのです。それに!」


 翠令は語気を強める。


「錦濤の姫宮についても! 自分と意見を異にしたというだけで! 本を読んだり燕語を解したりと自分の期待に沿うなら重用するが、自分の思い通りにならないと思えば時間も手間もかけずに切り捨てる。あの男は、他人のことなど、自分が自在に動かせる盤上の駒としか考えていない!」


 そうだ、そもそも円偉が読むように渡してきた紀行文からして自己顕示欲の塊だったではないか。

 翠令はさらに声を張り上げて言い募った。


「あの紀行文! 鄙の人が親切であれば純粋で素朴だと喜ぶが、鄙の人が自分の望み通りでない姿を見せれば世俗に汚されたと嘆く。鄙の人間に手前勝手な望みを抱くばかりで……」


 ここで翠令の口がぱたっと止まる。


「どうした? 翠令」


 この時の翠令の背筋を、ぞっとするものが一気に駆け上がった。円偉を非難する、この自分自身はどうであっただろうか ?


「私、私にも円偉と共通する部分がある……」


「……?」


「物乞い……いいえ、盗人と思われたのは、私がここの子どもから水を得ようとしたからなのです。私は貨幣を渡して買うつもりでいました。ですが……」


「事の次第は聞いているよ。翠令は人から不当に物を奪うような人間じゃない。ちゃんとそう説明しておいた」


「いいえ……。私は東国の子どもから水を得られるだろうと当然に考えていました。この土地の人々が貨幣を有難がらないと薄々察しがついていたのに、それでも自分が価値あると思うものを与えれば喜ぶだろうと思っていました。都と言葉が違うと分かっていても、私の言葉を相手が理解するべきだと思い込んおり、私がここの言葉を話さなくてはならないと感じるところが乏しかった」


「翠令……」


「心のどこかで思っていたのです。鄙の者には素朴な心の清らかさがあるはずだ、と。だから、困った旅人である私を助けるに違いない、と──」


「……」


「私は東国の人々を侮っていた。貨幣を押し付け、自分の言葉しか話さず、それでも私に親切にするべきだと思い込んでいた。円偉の紀行文を読んで感じた、あの鼻持ちならなさは私にもある──」


 翠令は困惑のあまり両手で頭を抱えた。


「私も……円偉と変わらないのかも……。ならば……私に円偉を非難する資格がないのかもしれません……」


 佳卓は静かに翠令を宥めた。


「そこまで極端に考えることはないだろう。多かれ少なかれ、偏見というものは存在してしまう。それに対してどうしていくのかが大事だろう」


 佳卓も目を瞑りほろ苦い表情を浮かべる。


「私もまた、そうだ。若い頃の私だって、こちらの女君を鄙育ちだとどこか軽くみていた不実な男だった」


「……」


「その頃の私は、趙元や朗風にも仕え甲斐のない頼りない主公だったろう。もっとさかのぼると、国単位の交流を利用して、子どもの駄々を押し通して燕弓を手に入れてしまうような嫌な餓鬼だった──だから、私は自分があまり好きでない」



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