七十六 翠令、言葉を探す
佳卓は、だから……と続ける。
「今夜はこれ以上貴女の傍にはいられない」
翠令の口から、考えるより先に疑問がついて出た。
「何故です?」
佳卓が吐息を漏らす。
「好きすぎて自分が自分でいられない。今の私はもう、貴女の前でいい男を気取る余裕がないんだ……」
「いい男……?」
佳卓は困ったような顔をしていた。そうしていると、鬼神の如しと言われる武人の長も、年齢相応の青年にしか見えない。
「男は誰でも恋しい女君の前で格好をつけたい。剣技も馬も弓も全ての武芸に優れ、仕事が出来て頼もしくて、見た目もよくて学識豊かで懐も深い……そんな男だと思われていたいものだ。私だって翠令に『佳卓様はいい男で、ちょっと気障なのが玉に瑕だ』と言われたい……翠令、今、鼻で笑ったな?」
「鼻『では』笑っておりません」
「でも、その顔、うっすら笑っているじゃないか」
「少し……呆れているだけです」
「なんで呆れるんだ?」
「……子どもっぽいことをおっしゃると思って……」
佳卓は少しむっつりし、そして呻いた。
「だから言ったろう? もう私は翠令の前で格好をつけられない。子どものようだと呆れられてしまうような男で……」
「……」
「都を出立する折には、翠令に『年若い貴女を縛る気はない』『他の男を選んでもいい』と言った。今でももちろんそう思う……いや、思わねばと思う。ただ、もう、自分から進んで冷静に口にすることができない」
佳卓は苦しそうな眼を翠令に向ける。
「私は、翠令にとっての理想の上官でいたかったんだ……。山崎津で初めて会ったときの翠令の印象は鮮烈でね。私に刃をつきつけるほど、まっすぐでひたむきなこの武人に小手先の見栄は通用しないだろうと考えた。だから、己の器量一つでこれほどの人材に惚れこまれたら、さぞ誇らしいだろうと思ったんだよ」
彼は「翠令はただの武人じゃない」と続けた。
「貴女はただ武芸が出来るだけじゃない。瑞々しい感情に溢れていて、殊に幼い姫宮への愛情深さは見ていて本当に好ましい思う。思慮もあり、他人を気遣うこともできる……。貴女はとても強くて優しい女君だから、私が貴女に恋をするのは当然だろう。だが……」
「『だが』……? なんでしょう?」
「少し怖くなった……」
「怖い? 私がですか……?」
少し考えて思い当たることを言ってみる。
「やはり、刀を突きつけたあの山崎津の一件ですか?」
「あれは驚いたが……私も一応武人の長なのでね。掛かって来られたら受けて立つし、競えば相手が誰でも勝つ自信はある。怖いというのは別の話だ。私が翠令を……翠令を愛してしまうことを怖れたのは別の日のことだ」
「……」
「姫宮と市に出かけた、その日の晩だよ。姫宮に厳しいことを申し上げたが、十の少女にそれで良かったのかと迷っていたあの夜……」
「ああ、あの新月の……」
「そうだよ。貴女は私に『お休みなさいまし』と言ってくれた。まるで子どもを寝かしつけるときのように。その優しく温かな声が嬉しくて……怖かったんだ……」
「いったい……何が怖ろしかったのでしょう?」
「貴女に飲み込まれてしまいそうで。貴女に弱音を吐いて、みっともないところもさらけ出してしまいそうで。翠令の前では、翠令に憧れられるような格好良い自分でいたいという気持ちも挫けてしまいそうで……。でも、私はその意地を捨てたくない」
「……」
佳卓は急に話題を変えた。
「東国は秋が早くてね……」
「……」
「都と違って、一気に季節が変わるんだ。急に涼しくなってね。すると色んな物思いに取りつかれる」
「……」
「私は人から色々なことが出来ると期待をかけられるが、それに十全に応えられるわけじゃない。出来ることと出来ないこととでは出来ないことの方が多い、至らぬ人間だ。だから、自分の出来ることを増やそうと努める。多少武芸も学識を身につけたとは思うが……。己の小ささが嫌になる……」
そう語る彼の口調は、いつになく弱々しい。東国の自然が雄大なだけに、その中に独り佇む細身の彼を思うと、それは確かにどこか痛々しい姿であるように翠令も感じる。
「円偉の出方も気になっていた。何かを見落としている気はしていた。もし私の不在が仕組まれたもので、何か取り返しのつかないことが起こったら──私のせいで誰かが不幸になったとしたら──」
翠令は激しく頭(かぶり)を振る。
「佳卓様のせいでは全くありません!」
「翠令がそう言ってくれるのならそうだろう。だが、私は私を許せない。そして、今までの私は、自分の身の丈に合わない過分な評価を受けていただけなのではないかと──鬼神の如き左大将とは何者であったのかと──自分の拠って立つ足元が崩れていくような……そんな空恐ろしい気持ちになる」
「佳卓様……」
「ずっとそんな不安が頭の片隅にあってね。夜も眠ることが出来ない」
「考えても仕方がないことは脇に置いて、夜にはその日の疲れを癒すためにお眠りになるべきです」
「うん……。だから横にはなるんだよ。それでも色んなことが頭から離れない。私は休むのが不得手なんだ。何かをああしてやろう、こうしてやろうと策をめぐらすのは好きで得意なんだが……。何もできない状態で自分を休めることができない」
翠令は眉間に皺を寄せる。今までもなかなか寝付かぬ幼い姫君を叱って来たものだ。
「そんなときでも、四の五の言わずにお休みなさいまし」
佳卓は叱られるような形だというのに、愉快そうに一瞬笑い、そしてまた寂しそうな顔に戻った。
「そう、翠令にそのように言ってもらいたい。初めてそう言われた時、とてもほっとしたんだ。もちろん今までも私を案じて休むように声を掛けてくれる優しい人間は沢山いたが……他の者の場合は『気遣い』だが、翠令の場合は『脅し』だからね。私に刀をつきつける人間に命じられては、聞き入れない方が勇気を要する」
「……」
「冗談ではなく本気で言っているんだよ。私が私自身を持て余している時、焦りや興奮でどうしようもないとき──そういう時ほど他人の声も聞き入れづらいものだが──だからこそ強くて優しい翠令に
「佳卓様……」
「でも、ここ東国に貴女はいない。だから、時折、貴女の名を呟いてみるんだ。『す、い、れ、い……』と。すると……胸が締め付けられるように苦しくなる……。今まで何度も東国に来ているのに……一人で旅をしていることがこんなに寂しいと思ったことはない」
「ならば……私がここまで来てよろしゅうございました。もう寂しいとお思いになることはありません」
「うん……」
それきり佳卓は黙った。その静寂(しじま)の中で虫の音が高くなったような気がした。いや、ずっと鳴いてていたのだろう。今、初めて気が付いただけで。
紫紺の空に冴え冴えとした月が高く上がっている。人の気配はほぼない。昼間しっかり体を動かす東国の民は、日が暮れると早々に寝入ってしまうようだ。
翠令には珍しい体験だ。商家が立ち並ぶ錦濤の街でも、誰かが宿直をしている御所でも味わえなかった静かな夜。側にいるのは佳卓だけ……。
彼と同じ場所にいて、同じものを聞いているのが心の底から嬉しかった。そして、生きてあることを単純に幸せだと思う。
けれども、翠令が彼に微笑もうとしているのに、彼は悔しそうに俯いている。
「情けないよ……。東国の女君には軽佻浮薄で不実な男だったし、貴女に対しても格好のいいところを見せられない」
そんなものは……。その、佳卓の言う格好よさなど翠令にはどうでもよいものなのに……。
「特に今、私は自分のことが大嫌いだ。せっかく翠令がこんなになってまで私を頼ってくれたというのに。姫宮や、白狼、竹の宮の姫君、趙元……みんな苦しい思いをしているのに、だから翠令が来たのに、その期待に応えられるような策が全く思い浮かばない。恥ずかしいことだ。翠令に幻滅されてしまうかもしれないが、私はこの程度の男に過ぎない」
「私は……確かに、事態が解決すればいいと思って佳卓様をお訪ねはしましたが……」
けれども、こんな言葉を佳卓に口にして欲しかったわけじゃない。私は……。
「私は……私のこの想いは何かを引き換えに得ようとしてのものではありません。私は……」
ここで翠令ははっと気づく。自分は自分の胸の内をきちんと告げてこなかった。佳卓が言葉豊かに翠令への恋を語ってくれるのに対し、自分がいかに佳卓を愛しているか話すことが乏しかった。
「初めてお会いした時……」
翠令は出会いから振り返っていこうとした。
「ん?」
「山崎津で白狼と太刀を交わしているご様子を拝見していて、鬼神の如しと謳われるのに納得致しました。噂通り武芸の腕は極めて高く、そして尋常ではない迫力がある」
「そうかね……。ありがとう」
「騎射をなさる姿は、技術の冴えも含め、本当に美しいものを見せていただいたと思っています」
「ああ、翠令はそう言って喜んでくれていたね。そう思ってもらえると私も嬉しいよ」
「私を細やかに気遣って下さいますし、白狼の器量を認め友情を築いていらっしゃる。白狼を庇うために、円偉を感嘆せしめるほどの学識の深さも披露なさいますし……竹の宮の姫君のお幸せも案じて行動なさっている。佳卓様は思いやり深い方で、麾下が心酔するのも分かります」
「まあ……一応近衛大将だからね、私も。人材を発掘して、護るべき相手を護るのが仕事だから」
「だからと言って、護ることと機嫌を取ることを決して混同なさらない。必要とあらば厳しい態度もお取りになる。姫君を子ども扱いしない姿勢は、私が見ていてはらはらするほどでした。一方で、陰で少女の心を傷つけていないのかも心配なさる」
「まあね……それは……」
佳卓はついっと視線を逸らし、ぽりぽりと頭を掻いた。
「翠令の前で理想の男でいたいと願うのに、いざ正面から褒められると、照れ臭いものだね。なかなか」
「……」
困った顔の翠令を、佳卓が軽く睨む。
「……今、『面倒くさい男』と思ってるだろ」
翠令は苦笑するよりない。
「そういえば、姫宮と一緒に褒めて差し上げた時にも随分照れておられましたね……」
「……そんなこともあったね、そう言えば。まあ、しかし、その……なんだ、そんなことは忘れてよろしい」
「忘れません」
「ん?」
「どんな佳卓様も……佳卓様ですから。強くて頭脳明晰で思慮深くて……だけど、どこか子どもっぽくて。どの佳卓様も……。佳卓様は……」
どんな佳卓のどんな所が、自分にとってどうなのか。これまでの彼の軌跡も愛しているし、これからも彼の傍にあって一緒に変わっていきたいと願っている、こんな自分の心を、言葉で説明出来たらどれだけ嬉しいことだろう。
佳卓が言葉で自分への愛情を彩ってくれたように、自分も上手く伝えられたらと翠令は願う。
だけど……。
「済みません、私は学問を正式に身に着けていませんし、こういったことに物慣れないので……上手く言葉にできません」
「……」
翠令はくいっと首を上げた。それでも、最低限伝えたい言葉はある。
「好きです」
佳卓が軽く目を見開き、そのまま呟く。
「直球だね……直情径行な翠令らしい……」
「私は言葉を知らないのです」
「いや……。翠令からは、その言葉だけでいい。その言葉がいい。いや、言葉だって要らないかもしれない」
「……」
「実のある人間は、その沈黙こそが雄弁だ。態度や物腰、行動が──そしてその瞳の色が貴女の気持ちを物語る。貴女が私を好ましく思ってくれるのは分かった。翠令に恋されるのは誉れで……そして……」
彼は自分の言葉をかみしめるように言った。
「嬉しい」
「佳卓様」
「とても嬉しいんだ、翠令。有難う」
佳卓は問うた。
「翠令になぜ姫宮を主と定めたのか尋ねたことがあるが、覚えているか?」
「はい」
そう、姫宮への愛情を問われた時も、翠令は言葉で説明できなかった。何故なら、翠令にとってそれは言葉で説明するものではなかったから。
「翠令は、ただただ、姫宮を愛おしむ気持ちのままに生きて来ただけだと言っていた」
「はい」
「姫宮に並びようもないかもしれないが、この私に対しても姫宮にそうであったように阿りも遜りもせず、ただ心のままに愛情を掛けてくれればいいと願っている」
もちろんだと翠令は思う。ただ、傍にいたいと──それ以上に思うことはない。
「私は……」
「ん?」
「お会いしたかった……。ここへ来るまでの道の途中……死にかけたときに何度も幻で佳卓様を見ました。姫宮と並んで、佳卓様のお姿を……」
「翠令……」
「会いたかった……。生きて、一目でいいから、お会いしたかった。そして、今こうしていられるのが嬉しい……とても嬉しいのです……」
その会いたかった佳卓の姿がゆらりと歪む。目頭が熱い。一つ瞬きをすれば、再び佳卓の映像の輪郭が整い、そして溜まっていた涙が両の頬を伝い落ちて行く。
佳卓もまた何度か目を瞬かせ、そして、男にしては細くて長い指を翠令の頬に伸ばし、その指先で翠令の涙をそっと拭う。
佳卓は目に真剣な光を宿したまま、少し口の端を上げた。苦笑をつくろうとしたもののようだった。
「困ったね」
佳卓はわざとらしく肩を竦めて見せる。
「翠令の涙を見てしまっては、とても私はここを離れることなどできやしない」
「傍にいらしてください、どうか……」
「私は翠令の上官なんだよ。本来は休養を命じるべきなんだ」
「私も麾下の武人ですから、次の任務に備えるために休養を取るべきなのでしょう、でも……」
佳卓が人差し指を唇に当てて「しっ」と翠令に黙るように促した。
「翠令は何も言わなくていい。ここは私が命じる。それくらいの格好はつけさせてくれ」
「はい」
「翠令、貴女の任務は当面ない。休暇だ──そして、私も今から休暇を取ることにする」
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