五十三 翠令、円偉の邸宅を訪れる(二)

 円偉えんいは、拍子抜けするほどあっさりと、佳卓かたくの問いかけを肯定した。


「おっしゃる通りです。先日の昭陽舎での合議では、姫宮と私とに軋轢が生じたかのような出来事がありました。私の周囲に集まる人々も、姫宮と私が不仲になったのではないかと案じております。そして、幼い姫宮が佳卓殿を重用し、この円偉を軽んじるのでと彼らは怖れているのです」


「円偉殿は類稀なる優秀な文官。貴方抜きで朝廷は成り立ちません。また、姫宮と私も皆が思うほど親しい訳ではないのですよ」


「優秀というなら……佳卓殿、貴方こそ。文武に秀でた大器ゆえ朝廷の動向を左右すると皆が畏怖しているのです」


「私にそんな大それた器量などございません。至らぬ身で微力を尽くす以外に出来ることもなし。朝廷の要はあくまで円偉殿です。私が円偉殿を侮るなど、邪推に過ぎません」


「ええ、佳卓殿。私とて貴方を信じております。しかし、物事を弁えぬ者たちは、その邪推をする──私と貴方が並び立っている限りどちらかがどちらかを食う覇権争いをするはずだ、と」


 階に座る翠令にも話の展開が見えてきたように思えた。そして、もちろん佳卓も気づいて先に口に出す。


「つまり、私が東国に赴くことで朝廷と物理的に距離を置けば、そのような邪推を封じることができる。円偉殿のお考えはそうなのですね」


 円偉が頷くような間が空いたが、すぐに高い声が翠令の耳に飛び込んで来た。


「その通りです。なれど!」


 翠令も階の下から首を伸ばし、部屋の中をうかがう。円偉の上半身が前のめりになっているのが見える。


「佳卓殿には必ず、必ずや京にお戻りいただきます。いえ、全ては佳卓殿、貴方にこの朝廷において真の意味でご活躍頂けるようにするためでございます。どうか、しばしの間だけ東国でお過ごしいただきたい」


「……」


 殿上の佳卓も無言だが、翠令もまた、もし自分が佳卓であったとしても黙るしかない話だと思う。普通なら、自分が勢力争いの中で地方へと追い落とされようとしていると考えるところだ。


 円偉は切々と訴える。


「佳卓殿がお疑いになるのも無理はない。しかし、私は決して貴方を都から放逐するつもりなど全くありません。それが証拠に、貴方の麾下を全て京にお残しいただいて構いません」


「……」


 円偉は大事なことだという風に重々しい声音で言い足した。


「貴方が信頼を置いている麾下を、この京に置いていただいてよいのです。むしろ立太子の礼では武官にも護衛や儀式の参加などの役割があります。右大将などにはいて貰わねば困ります」


 円偉はさらに加える。


「それに、もし都に変事があれば固関をせねばなりませんが、そんな事態に貴方にお戻り頂くにも、関所を二十人を超える人数で通過するにはやはり開け閉めに煩雑な手続き――開関――が必要となります。そのような時に備えて身軽にご出発なさってください。火急の用ができましたら早馬でお知らせいたします。手勢が少ない方が都合がよろしゅうございましょう」


 翠令は内心でうなる。

 もし、仮に円偉が佳卓を朝廷から追いやり錦濤の姫宮を自在に操りたいのなら、佳卓の息がかかった麾下も共に京から追い出すだろう。


 だが、そうでないならば……。

 趙元を始めとする麾下が京にあれば、円偉に対する重しとなる。しかも、趙元は右大将。そもそも左近衛大将佳卓と並ぶ重職だ。

 それに、今上帝も穏やかな方だし、錦濤の姫宮も朝廷の争いなど望んでおられない。

 つまりは、円偉より上は帝と東宮、下には右大将を筆頭とする佳卓派の武人たちが京の都にいる。これなら、佳卓本人が京にいなくとも、円偉が単独で何か大それたことをする可能性はかなり低いだろう。


 ──これは安心できるかもしれない……。


 同じようなことを佳卓も考えていたようだ。自分が東国に赴くこと前提で話を進める。


「私が東国から戻るのは錦濤の姫宮の立太子の礼より後になるのですか?」


 円偉は少し不意をつかれたように口ごもりつつ答えた。


「それは……おいおい……検討していこうかと……。東国の状況次第もあるでしょうし……」


「そうですね……」


「そんなことより!」と円偉は何かを振り払うような声を出す。


「何もかもが一段落して佳卓殿が帰京される日が待ち遠しいものです。その頃には、朝は秩序正しさを取り戻し、真の王道政治を実現する道筋がつけられていることでしょう」


 翠令は円偉のこの言葉に引っかかるものを感じた。この円偉の言いようでは、今現在の朝廷が秩序正しくないかのようではないか。


 しかし。彼女は首を振って、いや……と考え直した。先帝が亡くなって今上帝が御位につかれたのは今年の初め。長らく先帝の暴政に苦しんできた円偉にとっては、今はまだ朝廷の正常化が端緒についたばかりだと感じられるのかもしれない。


 円偉はその後も、佳卓が再び都に戻ってきて二人で朝廷を支える未来を語った。円偉は佳卓が戻ってくることを信じ、そして期待しているようで、その言葉は誠心誠意発せられているように思えた──いささか熱意が過ぎるほどに。


 円偉の口調が陶然とした色を帯びていく。


「貴方が都にお戻りになられたら……」

「貴方と私とで政に取り組むことになったら……」


 円偉はまるで歌でも歌うかのように、感情を込める。


「貴方とこの私とで王道を整えて参りましょう。さすれば正しい帝の下で、理想の政治が隅々まで行き渡り、きっとすばらしい治世となるでしょう」


 そして話題は、佳卓が到着して暫くそうであったように、再び燕の政治哲学などの書物に戻る。

 円偉があの書物のあの箇所はどう思われますか? と尋ね、佳卓が答えを返し、時に佳卓自身の見解を述べる。


 ──円偉様は本当に楽しそうでいらっしゃるな……。


 話の内容は分からないが、その声に滲み出る喜びようは翠令にもよく分かる。


 論を戦わせる合間にも「やはり貴方とは噛み合った議論ができて面白い」「本当に得難い相手です」と満足そうな声が聞こえてくる。自分と同等の学識を持つ話相手を得て心底嬉しいのだろう。


 ──だから、円偉様が佳卓様を害することなどあり得ない。


 翠令はその点は何の心配も要らないと確信を深めた。


 夜は更けゆく。

 月が傾く頃、佳卓の方から辞去を申し出た。円偉は声を落としながら肯った。


「お名残り惜しいが……。何もかも落ち着いたら貴方と議論する機会はこれからもたっぷりあるでしょう。今日はひとまずここまでに致しますが、せめて車に乗るまでお相手を願いしたいものです」


 そう言って二人は邸内の奥に入って行った。

 翠令もまた立ち上がり、庭を抜けて牛車まで小走りで向かった。


 牛車に乗りこんだ佳卓は、円偉の邸から少し離れたところで車を止めさせた。後部の簾の隙間を空けて顔をのぞかせる。


「入っておいで。翠令」


 何か話があるのだろうと察した翠令が乗り込むと、佳卓から意外な名を聞いた。






 *****

この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。

https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16817139557703841092 

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