五十四 翠令、円偉の邸宅を訪れる(三)

「翠令の聞いていないところで、円偉えんい殿から白狼の話が出た」


白狼の名が朝廷の重臣の口から飛び出すとは意外なことだ。


「では、竹の宮の姫君と男女の仲という噂が円偉様の耳にも届いているのですか?」


「うん、そのようだ。姫宮との意見の対立があってから、円偉派の者が『佳卓の麾下が不穏な動きをしている』と、わざわざ竹の宮の白狼の噂を耳に入れに来たそうだ」


「そうですか、それで……」


「円偉殿から『佳卓殿はご存知ですか?』と尋ねられた」


「どうお答えになられたのです?」


「事実をありのままに伝えたよ。『男女の仲などない』とね。噂を耳にした私自身が竹の宮に足を運んで確認したとも言った。すると……」


「すると?」


「円偉殿が『それでは佳卓殿がこの件で動くことはないのですね?』と確認された」


「それは……? 男女の仲でなくとも円偉様は姫君の醜聞を不快に思い、それで佳卓様に白狼を処分して欲しいと暗に圧力をかけておいでなのでしょうか?」


「普通はそう受け取るところなんだが……。何かこう……円偉殿は私の出方を探るような声色だったように思う……。私が『白狼の処分は考えていません』と答えると、どちらかといえば安堵された風に感じられた……」


「佳卓様が白狼を処分しないことに円偉様が安堵した? なぜです? その反対なら分かりますが……?」


 佳卓は眉を顰めた。


「分からない。なぜなのだろう?」


「白狼と姫君が出来るだけ長くともにいられるなら、今すぐ処分を求められずに済んだのは好都合ですが……」


「うん。こちらとしてもしばらく静観せざるを得ない。姫君には白狼が必要だ」


「そうですね」


 白狼と姫君は男女の仲ではない。白狼は何もするつもりはないと言っているし、彼は自分の誓いを守るだろう。

 だが、だからこそ単なる男女の仲より深い心の繋がりがあるように思われる。

 

 過去の心の傷と戦いそして乗り越えようともがく姫君にとっても、白狼の存在は今しばし必要なものだ。

 白狼のためにも姫君のためにも二人が共にいる時間が一日でも長いものであって欲しいと、翠令もまたそう思う。


「白狼は決して姫君に何もしない。それに、梨の典侍殿が噂を流す女房達をきちんとした人員に交代させてくれた。だから、いずれ竹の宮の噂は消える……そのはずだ」


「はい」


「もっとも……これから円偉殿が白狼の処分を求めることもあるかもしれないし、円偉殿でなくても誰かがそう言いだすこともありうる。ただ、それでも、私が東国行を引き受ければ時間が稼げると思う」


「時間が稼げる?」


「そうだ。白狼を処分しろと誰かから何かを言われてもすっとぼける理由ができる」


「は……? 『すっとぼける』?」


 佳卓は、にやりといつもの彼らしい人を喰った笑みを浮かべて見せた。


「近衛大将が長期間都を留守にして東国へ旅に出るんだ。業務の引継ぎや準備だって大変なんだよ。だから、いろんなことを『ついうっかり』忘れてしまうことはあってもおかしくないだろう?」


「はあ……」


「だいたい、いくら私が元盗賊の白狼を引き入れたという経緯があるにせよ、彼はただの近衛舎人の一人に過ぎず、本来は近衛大将が直々に取り扱うような問題じゃない。しかも、白狼は右の近衛であって、私の直属の麾下ではないからね、形式上は」


「だから」と佳卓は繰り返した。


「今後白狼のことで誰かが何かを言ってきても、近衛大将を務める私が京を離れて東国に赴くかどうかという大事に比べれば些末事なのだから、私が『うっかり忘れた』ことにする」


 佳卓はふふんと鼻を鳴らした。


「安心しろ、翠令。私はしらばっくれたり、とぼけたりするのは大の得意だ」


 翠令も苦笑を返すしかない。


「存じております」


「だろう? 仮に『どうなりましたか』とせっつかれても、二、三回ならやり過ごせるさ。そのうち根負けして諦めるか、向こうも忘れるかして下さるかもしれない。まあ、白狼と姫君との時間は当面大丈夫だ」


 その点はそうだと翠令も賛同する。ただ、それは佳卓が東国に行くからだ。


「……やはり、東国に行かれますか?」


「そうだね。前々から選択肢として考えなくもなかったんだよ。錦濤の姫宮が円偉よりも私に近しくなり、それを周囲が問題視するようになるなら、東国に行くのもいいかもしれないとはね」


「……」


「特に昭陽舎での一件以来、姫宮が私を重用して円偉殿の一派をを冷遇するのではないかと朝臣達が疑心暗鬼になっている。円偉殿もそれを憂慮しているのだとは、翠令もさっき聞いたばかりだろう? ここで私が東国にでも行かないと、朝廷内のこのぎすぎすした空気が変わらない」


「されど……」


「私が一時的に京から離れて物理的に距離を置く。それが最も即効性のある解決策だ」


 ですが……と言いかけて、翠令はこれについては自分がその直接の原因になってしまったことに思い至る。


「申し訳ありません。昭陽舎で佳卓様が発言されたのは、私が短慮を起こして殿上の合議の場に乗り込もうとしたことが原因でしたのに……」


 佳卓は右手をあげて翠令を制した。


「過ぎたことだ、気にするな。それより、これからを最善にすることを考えよう。幸いにも、円偉殿の方から解決案を示して下さったじゃないか」


 佳卓は、円偉が最初に切り出した話題もただの口実ではないと指摘した。


「円偉殿が言うように、東国の人々にとって女性の帝が受け入れがたいかもしれないのも確かだ。そうでなくとも、東国の豪族は朝廷そのものというより、私との個人的な友誼で繋がっているところがあるからね。姫宮の立太子にあたって、この私が一度は根回しに出向いた方がいい。円偉殿が最低限に抑えるにしても、立太子のために民に増税もするわけだし」


「それも……そうですね……」


「円偉殿が言うよう、戦と言うのは起こってからが厄介だ。その間に失われた命は二度と戻らない。その前に防げるものならもちろん防ぐべきだ。私の労など大したことじゃない」


「そう……そうです……」


 そうだ。何もかも円偉の言う通りなのだ。ただ、それでも東国行に反対したくなる。それは、自分が佳卓と離れたくないという自分の中の恋情によるものだろうか。それも確かに大きな理由ではある。

 だが……それ以外にも何か翠令にはひっかかる……。


 佳卓も翠令が東国行に諸手を挙げて賛成しているわけではないと見て取ったようで、懸念材料にも触れる。


「もし心配することがあるとすれば、私が東国に追いやられたまま京の都に戻ってこれなくなってしまうかもしれないということだが……これはなさそうだな」


「そうですね。趙元様をはじめ麾下は全て京に残しておいていいと円偉様はおっしゃっていましたし」


「うん。それに円偉様は学問の話が出来ることで私に随分好意的なのは確かだ。私に向けるその期待が純粋な好意というにはいささか重いように感じられるほどにね……。だから、まあ、私が帰京できることは疑わなくていいだろう」


 翠令が大きく、そして何度も首を縦に振った。


「その点は私も安心しております。佳卓様が京に戻ってきた後の話をされるときの円偉様の声は、私が庭で聞いていましても明らかに弾んでいました」


 翠令は少し軽口を叩いてみる。


「佳卓様と離れ離れになって一番悲しむのは円偉様では?」


 佳卓も「違いない」と笑って答えた。


 翠令が「これもないと思いますが……」といいながら一つだけ確認した。


「念のため伺いますが、佳卓様はほぼ単騎に近い状態で東国に向かわれます。その道中で暗殺される危険はないでしょうか?」


 佳卓が肩を竦めて即答した。


「ない。私はこれでも些か武芸の心得があるつもりでいるからね」


 些かも何も、佳卓ほどの武芸の腕のものを討ち取れる人間はまずいない。

 翠令も「愚問でございました」と軽く笑んだ。


 その後しばらく二人の間に沈黙が下りる。牛車の車輪が回りざりざりと土を踏む音と、車体がぎしぎしと軋む音が規則的に聞こえるばかりだ。


 翠令は視線を落とした。


 考えられることは全て考え尽くした──と思う。今、東国に行かざるを得ないことも、無事帰ってくることも確認した。佳卓を陥れるような罠などどこにもない。そのはずだ──。

 だが──。


「だが……」

 佳卓の声に翠令は顔を上げた。佳卓も拳を顎に当てて考えを巡らしていた。


「何かが引っかかりはするんだ。それが何なのかさっきから分からなくて困っている」


「実は私も……。考えられる可能性は考えつくしたと思いますし、今、東国行を円偉様に提案されて断る理由がありません。それなのに……」


「ああ、うん、そうだね……断る理由がないんだ……」


 佳卓は額に手の甲を軽く当てた。


「円偉殿は、私が断れない条件を全て計算づくでご提示なされたように思う」


 佳卓は指を折って数え上げた。


「姫宮と私が必要以上に近いのではないかと疑わている状況であること。東国の騒乱を防がねばならぬこと。そして麾下をそのまま京に残しておくこと。──これだけの条件を並べて、今この時機に提案される点がね……。断りようがない。どうにも選択のしようのない状況に置かれたのが、少し息苦しい……」


 翠令も思う。そうだ、何かに追い込まれているようなこの気分は、確かに「息苦しい」。


「円偉殿の提案に疑わしい所は何もない。円偉殿が熱弁を振るったように、将来円偉殿と私とで帝を支えて理想の政治を目指すために一時的に私を東国に行かせる──断る理由がない。自然で誰にとっても納得がいく話だ」


「……」


「だが……あまりに自然過ぎて、それが不自然に思える」


「自然過ぎて……」


「円偉殿の語り口は流れるようだった。私に断る理由はない。どんな理由を挙げてもこじつけにしかなりそうにない。ここに至るまでのことの流れがあまりに出来過ぎて、かえってそこに至る理路に周到な作為があるかのように思えてしまう」


 佳卓の言葉は、翠令も感じている漠然とした不安の輪郭をなぞっていると思う。だが、その中身を具体的に指し示すものではない。


 佳卓が少し苛立たし気に吐き捨てた。冷静沈着で人を食ったような態度の彼には珍しい。


「くそっ。なにかもやもやするのに言い当てる言葉が浮かばないのが、もどかしい……」


 翠令もまた釈然としない気持ちを抱えたまま、昭陽舎に戻った。

 そして、姫宮に佳卓が円偉から東国行を提案されたことを申し上げる。もちろん帰り道の牛車の中で佳卓と話した内容もだ。


 姫宮も思案気な溜息を漏らされた。


「何か引っかかる気は私もするわね……。佳卓と翠令と同じように、私もそれが何か言葉が見つからないんだけど……」


「まことに……」


 姫宮は翠令の顔をまっすぐ見られた。


「悪いわね。翠令」


「は?」


「翠令は佳卓が好きで、ずっと一緒にいたいでしょう。それが離れ離れになってしまう……」


「一時的なものです。お気になさいますな」


 姫宮はそれでも少し顔を曇らせたままでいらした。


 そして、その日からたびたび、翠令にあれこれ理由を付けては佳卓のもとを訪れる用件をお言いつけなさる。翠令が佳卓に会えるようにと、姫宮からの気遣いであるようだった。


 近衛大将が都を空けるのはやはり大事であり、佳卓は今までに輪をかけて忙しそうにしている。右大将の趙元も朗風もそうだ。


 これほど気ぜわしく過ごしていれば、佳卓が人を喰った笑みで言ってのけたように、白狼のことで何か言われても「忘れてた」と「すっとぼける」ことが十分できそうではあった。


 竹の宮のことについては、翠令も含め佳卓もその周辺も安心していた頃。

 翠令が姫宮の仰せのご用事で左近衛の佳卓に会いに行く途中で、妙な官人に出くわした。


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