四十九 円偉、憤る(二)

 庭の階の下から「あのう」とおずおずとした声が聞こえた。家人が「来客が見えました」と告げる。


 円偉えんいはその声に応えるために庭を見た。昭陽舎では真夏の日差しが目を射るようだったのに、今はどんより厚い雲が垂れ込めてほの暗い。涼しくなったのも道理、夕立でも来るのかもしれない。


 円偉は一拍置いて呼吸を整え、家人に落ち着いた声で客を正殿に通するように命じた。

 来客が誰か分からぬが、その用向きの予想は容易についた。


 案の定、客は今日の昭陽舎での合議に出席していた者だった。そして、円偉の面子が潰されたことを憤懣やるかたない様子で嘆く。


「姫宮は円偉様には食い下がるのに、佳卓かたく殿に対してはやけに素直に言うことを聞いていらした。あのような態度では朝の乱れは避けられませぬ」


 円偉は心の中だけで嘆息する。

 確かにあの女童は今日これだけはっきりと円偉を侮辱したのだから、これから佳卓を頼ろうとするだろう。そして佳卓も姫宮の助けになろうとするだろう。


 しかしながら、それは決して自分を害することにはならないと円偉は信じている。


 なぜなら佳卓も仁政を重々知っているはずだからだ。そんな才人がこの自分を軽んじるわけがない。

 自分と佳卓は好敵手であり、同じ高みを見ることが出来る同志であり、互いに互いを尊重できる絆で結ばれているはずだ。


 だが、他の者には円偉の佳卓に対する高邁な友情が理解できないものらしい。同じくらいに極めて優秀で、そして軌を一にしない二人は双璧と呼ばれ、互いに競い合っていると思われている。


 そして、凡人たちはどちらかに取り入ることで他の者達を出し抜こうとする。彼らにとって取り入った相手に不利な状況は、すなわちその者本人の不利益であるのだった。


 客人はいきり立つ。


「今後、東宮の寵が佳卓に偏っては、この朝廷の秩序が保たれません!」


 あの女童の寵などどうでもよい円偉は静かに返した。


「佳卓殿も朝の安定に心を配っておいでです。あの方が私を蔑ろにするなど決してなさいますまい」


 円偉が泰然としているのが客人を苛立たせたらしい。彼は別の方向から円偉の心をかき乱す話をし始める。


「今日の錦濤の姫宮の件だけではありません! 佳卓殿がらみで不穏な動きは都の外にもございますぞ」


 客人が声を潜めた。


「竹の宮で少々奇妙なことが起こっております」


 竹の宮という名前に円偉の表情が揺れた。あの、自分の永遠の憧れの女君に何か変事があったのだろうか? 円偉は我知らず身を乗り出していた。


「佳卓殿が近衛に引き入れた異形がおりましょう?」


「ああ、あの白人か」


 近衛の一員として佳卓が面倒を見てやっている混血の賤民。牛車の中から遠目に姿を見かけたことがある。

 あれがどうしたのか。そう言えばあの者について温情をかけて欲しいというようなことを佳卓殿が仰っていたような気がするが……。円偉はそう思いながら首を捻る。


「あの異形は、現在、真名を学ぶために竹の宮にいるのでございます。ところが、なんと姫君とあの者が通じているとの噂を耳にいたしまして」


「は……?」


 円偉は驚くというより訝しく思った。男は自分がどうしてそれを知ったか、その情報の出どころを説明する。その男の家人の恋人が竹の宮で女房勤めをしており、その伝手で聞いた話だという。


「竹の宮の御側近くに仕える女房が言っているのでございますよ。竹の宮はなんと、夜になるとその男と肩を寄せ合って過ごすとか」


 円偉は身を引いて笑い飛ばした。


「まさか。それではまるで姫君がその異形に心を寄せているかのようではないか。異形の方が勝手に恋いこがれて姫君を襲い、姫君がお苦しみならともかくも」


 姫宮がそんな卑しい者と睦まじく男女の仲になるなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことなど起こるはずがない。


「姫君はお心を病まれていらっしゃる。正気でないので奇妙な行動をなさるのだろう」


 男はせっかく持ってきた話を笑い話にされたくないようだった。


「いえいえ、姫君はもうかなりお健やかになったようでございます」


「……」


「竹の宮に勤める女房達は、『自分たちが真心こめてお仕えしているから姫君の御心も立ち直っておられる』と皆、口をそろえて申しております」


 今回のこともその証左ではございませんか、と男は続ける。


「確かに姫君が竹の宮に移られたばかりの幼い頃は、先帝に襲われた恐怖も生々しくていらっしゃり、男の姿を見るだけで半狂乱になられたものだそうですが。それが男を身近に侍らせるようになられたのですから、それほどまでに健康を取り戻したのだと申せましょう」


 円偉は喉元までせり上がってくる不快感を飲み下した。


 別にあの異形が姫宮の心を得たとは思っていない。そんなことは起こりえない。

 しかし、自分が竹の宮のご様子を知り得なかったというなら、それは苦々しいことだと思う。自分だって竹の宮と文のやりとりはしている。姫君を気にかけ、ご様子を把握しようとしてきた。自分だって姫君が落ち着いてお過ごしなのを知っているはずなのだ。


 円偉は深呼吸をしてから厳めしい声を出した。


「姫宮は私がお贈りした書籍もお読みになり、そしてその感想などを文にしたためて私に送って下さる。確かに学問に取り組まれる程にはお心が回復なさっているようではあろう」


 ここ何ヶ月はそういった文も届いていないが……それはもともと年に何回かのやりとりだからだろう、と円偉は納得することにした。


 円偉は「そうか……」と呟きながら、手を顎に当てる。姫君のお心の病は治癒可能であり、実は既にかなり回復していらっしゃるのかも知れない。お心が回復なされば男君に親しもうという意欲も湧くだろう。女は男と対になって生きようとするのが正常な生き方なのだから。


 しかし、あのような竹林に囲まれた宮に隠遁生活を送っていらしては、姫君にふさわしい男君と接点がない。姫君は本来、貴人中の貴人とのみ交流なさるお立場だ。


 円偉は眉根を寄せて白狼という名の異形の姿を改めて思い出した。薄気味悪い青い玻璃玉のような目をし、温情でこの内裏に置かせているというのにしおらしさの感じられない傲然としたあの態度。あれならこの世の道理もわきまえず、姫君の側にあつかましくも近寄りかねない。美しい花に害虫が群がるようなものだ。


 円偉は遠く西の方角を見た。その視線のずっと先には竹林が広がり、姫君がお暮しになっている。円偉は出来るだけ重々しい口調で客に応じた。


「姫君が下賤な者を自ら近づけるなどとはありえない。しかし、この京から離れた場所に長らくお過ごしで姫君は本来の高貴なお暮らしから遠ざけられてきた。もう臣下から見捨てられたとお嘆きで、寂しさゆえにつまらぬものに気を取られてしまわれるなどあまりに痛ましいこと」


「さようでございますとも。佳卓殿は円偉様が丁寧にお世話申し上げる姫君にあのような下賤な者を近づけ、あの妖のような男はあり得ない醜聞の火種となっております。佳卓殿は円偉様を愚弄しているとしか思えませぬ」


 分かった、と円偉は頷いた。


「まずは、その異形を警護から外すよう手配しよう──佳卓殿の配下であろうとも」


 日の差さない曇り空ゆえ辺りは暗く、日暮れを迎える前から来客のために灯火が用意されていた。辞去する客を見送りに円偉が外に出ると、灯火に慣れた目に空が暗闇に近い程黒く感じられた。それが、厚く低い雲が天の光を遮っているせいなのか、時刻のせいか分からない。


 円偉が再び自室に戻ってしばらくして雨が降り出した。ぽつりぽつりと庭の植栽の葉を水滴が叩く音が続き、それから突然、ざあっと一斉に雨が降り注ぐ音があたりを取り囲んだ。

 この瞬間、円偉の心を乱していたあれこれが、たった一つの言葉に収斂する。


 ──佳卓殿、貴方がぐずぐずなさっているからだ


 白狼とかいう異形はどうでもいい。害虫など取り除けばいい。


 だが、あんな犬畜生と変わらぬ元盗賊の白人にまで佳卓がかまけているから、こんなことになる。

 いや、あの白人だけではない。刀を振り回すことで身を立てているような下らぬ武人たち、利益でつられる心卑しい東国の民、大学寮でも変人扱いの地方官吏……。


 ──佳卓殿、あんな者どもに関わっているから、貴方が彼らの頭目だと疑われるのです。まるでこの円偉よりも彼らの方が貴方にとって大事な存在であるかのように誤解されてしまう……。


 自分と佳卓との間には気高い友情がある。互いに互いの高潔さを分かりあえる仲なのだ。それが本来の佳卓という人間のはずだ。


 だが、彼らに気を取られてしまっているうちに佳卓はどんどん本来の姿から逸れていってしまうばかりだ。


 円偉は胸の中で双璧の片割れにかきくどく。


 ──貴方は私と同じくらい優れた器量があるのに。

 ──この私と競いあえる能力があるのに。

 ──貴方と切磋琢磨できればどれほど手応えが得られるかと私は楽しみにしているのに。


 円偉は身を捩り、脇息の端を関節が白くなるほど強く握りしめる。


 ──貴方が私のそばにいないから、私はこんなにも孤独なのに!


 これまでずっと待っていた。佳卓が遠ざかっていくのを哀しみ、焦り、悔しく思っていた。


 もう、待てない──。


 それなのに、佳卓が円偉のもとに戻るめどは立たない。

 あの女童は今後自分を朝廷から遠ざける一方で佳卓を近づけるに違いない。そうやって、円偉と共にあるべき佳卓の本来の生き方を阻むのだ。


 ──本当に忌々しい、あの女童。あんな可愛げのない子供など将来の帝の器ではない。ああも生意気ではこの先も天道を理解しようとする謙虚さや素直さなど持てるようには到底なるまい。


 貴い女君は何事にも鷹揚で素直な性質であるべきものを……。そう、貴婦人中の貴婦人、竹の宮の姫君のように


 規則正しかった雨音が風をはらむ度に乱れるようになった。御簾もまたばさばさと音を立てる。そのはっきりとした音に混じって、遠く低く遠雷が響いてくる。


 その音は都の西から近づいてくるようだった。円偉は西の竹林にお住まいの佳人を思う。自分はあの方のために世を美しく整えようとしてきた。先帝が汚した、あの清らかだった女君のために。


 ──そうか。ご回復なさることもあるのだ。


 あのように過酷な悲劇に見舞われたかよわき女君は二度と立ち直ることなどお出来になるまい、と円偉は諦めていた。もはや、人の世とは縁を切って世捨て人としてお過ごしになるしかないと。


 円偉は、姫君がせめて心の中だけでも平穏であるようにと心を砕いた。真名を読む術を差し上げ、そして相手の成長に合わせてふさわしい燕の哲学書を贈った。同じ学問書を読むことで、円偉もまたあの豺虎けだものの先帝など許してなどいないと分かって頂きたいと願いながら。


 円偉は時折届く感想の文面を何度も読み込み、姫君の理解度を丁寧にくみ取ってきた。そして、自分が知りうる限りの膨大な書物から、熟考に熟考を重ねて最適なものを選りすぐってお届けした。


 ──竹の宮の姫君は聡明であられる。私の与えた課題を着々とこなしていらっしゃる。正統派の読書の世界に、私の手に導かれて歩みを進めていらっしゃる。


 円偉は嘆息した。


 ──ああ、この方が帝であっていらしたら。


 ピカリと稲妻が走る。円偉の歯噛みする苦悶の表情も、その閃光に一瞬露わとなった。それから一拍遅れて地を揺るがすような低い衝撃音が轟く。


 そして、雷が落ちると同時に彼の脳裏を一瞬にして思考が駆け抜けた。


 ──竹の宮の姫君こそが御位におつきになるべきなのだ。健康に問題があっただけで。順番が間違っていた。


「そうか」と円偉は小さく声を発した。


 問題は単純だった。順番は直せばいい。誤りは正せばいい。こんがらがった糸はほどけばいい。

 錦濤のの姫宮など東宮にせず、健康を取り戻した竹の宮の姫君を東宮にお迎えすればいいのだ。

 これで佳卓もあるべき姿に戻ることができる。


 そのためには……円偉は淡々と思考を進めた。

 まず、姫宮が佳卓を頼れないようにする。佳卓を、その本来の姿から遠ざけてしまうような取り巻きたちから引き離す。そうだ、それぞれをバラバラにしてしまえばいいのだ。


 ──これで何もかもが正される。






*****

この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。

https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16817139557357216416

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