幕間 第三の男、円偉の憤怒

四十八 円偉、憤る(一)

 円偉えんいは自邸に帰るなり、出迎えた家人たちに「男の家人も女房も、寝殿には誰一人近寄るな」と怒気をはらんだ低い声で吐き捨てた。


 今日の昼間は灼熱にあぶられるように暑く、その中を、この邸宅の主人である円偉は、錦濤きんとうの姫宮の立太子の礼についての会議に出席していた。


 余りの猛暑に神経が苛立っているだけかと普通は思うところだが、普段の円偉はそんな理由で感情を乱す人間ではない。家人たちは主公の不機嫌の理由が皆目わからず、互いに顔を見合わせるばかりだった。


 そんな彼らをよそに、円偉は足早に邸内を歩く。そして、母屋もやに入るとしとねの上に乱暴に腰を下ろし、苦々し気に独り言ちた。


「見込み違いであったか」


 ──あの姫宮には期待をしていたのだ、それなのに……。


 立太子の礼の合議は、そもそも何の問題もなく円満に終わるはずのものだった。


 ──それが!


 腸が煮えくり返る思いがする。


 佳卓かたくがきちんと評価してくれたとおり、自分はこれまで正しく政を執り行って来たのだ。そう自負している。民にはずっと最低限の税しか課していない。だから臨時の出費には一時的に増税をせざるを得ない。


 円偉は、誰もいない空間を苛々とねめつける。


 増税は決して自分の本意ではなく、民への負担を遺憾に思っていると表明したではないか。そして、居並ぶ朝臣達も円偉が苦渋の決断を下したことに同情してくれたではないか。


 ──あの姫宮は己の役割をわきまえない


 あの場面には姫宮の果たすべき役割があったはずだ。円偉を慰撫するという役割が!


 自分はこうも仁愛を備えているにもかかわらず、やむを得ず税を上げるという苦しい決断をしたのに。それをなぜいたわらない? それこそが、あの姫宮のすべきことであろう!


 ──何様のつもりだ、あの女東宮は!


「税を上げるなら工夫をしろ」などと見当違いなことを言い、円偉がいつも民に思いを致してることに何の思いやりもない。それどころか、円偉に民への関心がないなどと暴言を吐く。


 自分は民から税を取ることを申し訳なく思っている。こんな自分を、民からの納税を当然視して話を進める姫宮が中傷するなど、これほど筋違いな話はない。


 円偉は自分をなだめようと、深く息を吸い、そして意識してゆっくりと吐きだした。


 ──気にする必要はない。女の身体に子どもの頭脳しか持たない女童に、壮年にさしかかった男性と同等の知性を期待する方が間違いだったのだ。


 そうだ。この自分があんな生意気な女童に心を乱すことはない。


 ──物の道理の分からぬあの女童に評価されずとも、そんなことはどうでもいい。それより佳卓殿──。


 あの場は最終的に佳卓殿が収めてくれた。そこには円偉への気遣いがあり、それを円偉は心から嬉しいと思う。

 しかし、一方で、佳卓はあの女童を否定したわけではない。特産物を市場で売りその利益を得ようなどという下らぬ考えを、佳卓もまた前提としていた。その上で、ただそれを実現できるほどの大きな市が京には無いという技術的な問題を指摘しただけなのだ。


 円偉は胸を掻きむしりたくなる。──そうではない、と。


 佳卓殿、貴方は燕のどんな難解な哲学書も読みこなせる頭脳の持ち主だ。天道によって国を治める天子のあるべき姿もよくお分かりだろう。そして仁愛溢れるこの自分をないがしろにするあの生意気な女童を、もっと根本からいさめることが貴方にはできるはずだ。なのに、なぜそれをなさらない。


 ──貴方ほどの人物が、なぜ?


 円偉にとって佳卓は特別な存在だった。


 知り合ったのは大学寮でのこと。ある日、彼は閲覧室で佳卓を初めて目にした。武人姿の彼がかなり難解な哲学書を紐解いているのを見て、円偉は驚いたものだ。

 しばらく見つめていたが、その武人の頁をめくる手の動きに淀みはない。「本当に理解できているのか」といぶかしく思った円偉が内容を問うと、的確な答えが返ってくる。


 きちんと読みこなしているのだ、そう思った円偉は跳びあがるほど嬉しかった。学生の頃に既に周囲から抜きんでていた彼は、学問を語り合える相手に恵まれていなかった。だから、切磋琢磨できる相手の現れたことが本当に嬉しかったのだ。


 以来、円偉は佳卓と議論を戦わせるのを楽しみとするようになった。知的に同等な相手と交わす会話というのはとても刺激的だ。──その愉しみは快楽とも言えるほどに。


 だが、年々その機会は減って行く。

 佳卓が円偉のような文官の道を歩まないからだ。


 佳卓が東国に赴いていて不在な期間もあるし、都にいても近衛大将として麾下の鍛錬や組織の人事などの雑用に追われてもいる。

 たまに佳卓が大学寮に来ると聞いて円偉が楽しみにしていても、彼は軍史や風土記の所蔵庫にいて、円偉が使う閲覧室には立ち寄ることがあまりない。


 円偉は彼の生き方が理解できない。

 王道が行き渡った世になれば武力など不要になるのに、なぜ武人としての生活を続けようとするのか。


 東国にいるならいたで、哲学に基づいた王道政治を彼の地で実践するのかと思いきや、堤をつくったり病人の面倒を見たりと人々の現実的な願い事を叶えてやろうとばかりする。

 そのように利益を与えてそれで民の歓心を買えても、それはただ損得勘定で支持されているに過ぎないというのに。


 正しい政治の在り方は、支配者が学識と仁愛ある姿を見せて民がそれを慕うものだ。佳卓は安寧と豊かさが大事と口にするが、そんなものよりもっと大事なこの国のかたちがある。

 佳卓ほどの器の持ち主なら、十分にその徳で民から慕われるはず。なのに、なぜ人気取りにかまけているのか円偉にはさっぱり分からない。


 ──佳卓殿、どうして貴方は私のように徳に生きようをなさらないのか


 円偉は佳卓が自分と同じように生きない理由を改めて考える。


 ──それは、ひょっとしたら、佳卓殿が「あの方」をよくはご存知ないせいかもしれない


 日暮れが近くなったせいなのか、涼風が巻き上げた簾の下を通って室内を巡る。朝からまとわりつくようだった暑気が払われ、その心地よさに円偉もほっと一息を入れた。


 円偉は「あの方」と出会った瞬間を回想する。内裏の奥深くに光があられたと感じたあの出来事を。


 初めて内裏に足を踏み入れたとき、遠くからあのお方をお見上げ申し上げた。漆黒の髪と抜けるように白い肌の、この世ならぬほど美しい少女。後に竹の宮の姫君と申し上げる女君は、ぼうっと淡く優しく輝いていらっしゃるように見えた。


 その麗しさはこの世を照らす存在に思え、あのお方にこそ、自分が有能な朝臣となって正しい世をお捧げ申し上げたいと願うようになった。今もなお、彼が為政者として身を律しているのは、この時の決意が根底にある。


 ──それなのに、あの白珠のような御方が汚されてしまった。


 姫君の叔父、武力で帝位を簒奪したあの豺虎けだものに。


 若き円偉は憤った。おかしい、間違っている、と。初めて知った時には悪夢を見ているに違いないと思うほどに。

 だが、その悪夢は醒めることがない。毎日毎日歪んだ世の中は続いていく。


 都の貴族達は保身を優先してあの暴君に唯々諾々と服従するばかり。その家族も下男下女たちも。そして京の街に暮らす者達皆がそうだ。

 貴族本人か縁者、中・下級官人、そして彼らを顧客とする商売人、立場は違えど思いは一つ。自分たちの安寧と豊かさが第一で、正義など二の次三の次。そんなものために立ち上がるのはまっぴらごめんだと考えている低俗な人間たち。彼らがあの暴政を間接的に支えていたのだ。


 当時の円偉はそんな狂った世の中を歯噛みしながら眺めているしかできなかった。だが、ほどなくして希望を見出すことになる。


 一つは燕の書物だった。政の理想を説く哲学書は、その理想を阻む世の卑俗さもまた描き出していた。


 正しく王道を歩む君主のもとであれば民がその徳を慕うことで調和のとれた仁政が成り立つ。ただし、そのためには民も徳を知らねばならない。しかし、そうでないから理想は実現しない。

 武力による覇道で暴政を敷く豺虎と、目先の利益だけを追う愚昧な民衆。あの暴君の治世は、偽りの王と徳を知らぬ民とで成り立っていた。


 もう一つ、円偉の心を慰めたのは、ひなに住む穢れなき無垢な民との出会いだった。


 京の都人が損得勘定ばかりで擦れて世知辛いのとは対照的に、田舎の民は純朴だ。

 旅をしたその先々で澄んだ瞳の鄙の民たちが自分を慕ってくれることを、円偉は誇らしく感じる。学問の中に閉じこもらず民と触れ合い、そして温かく受け入れられている事実こそが、この自分の学識が形ばかりではなく豊かな徳に裏付けられていることを示しているはずだからだ。


 正解はここにあった。汚れない民と心と心の交流を経験した円偉は、これこそが理想の国のかたちだと思う。徳ある導き手とそれを慕う純真無垢な民。この関係をこの国全体で実現すればいい。


 円偉はあちこちへ出かけ紀行文を書き綴った。

 京の都から東へ行っても西へ行っても。そこが険しい道の先の山深い農村でも、波が足元を洗うような海べりの漁村でも。京の低俗な人間と違って、鄙の人々は美しい。


 そして先帝は病で斃れ、人々はあの豺虎のくびきを離れた。自由に思考できるようになった人々は円偉を口々に賞賛する。その豊かな学識と、無垢な民を見出して彼らと理想の関係を結ぶその姿とを。


 ──だが、物足りない。


 佳卓が──この自分がこの世でただ一人己と同じくらい優秀だと思える人物が──自分に無関心であることが、どうしても気がかりでたまらない。


 佳卓もまた円偉に敬意を払っている。それは分かる。ただ、他の人々のように尊崇するというほどではない。尖った人物のように見えても佳卓は基本的に他者に対して丁寧だ。円偉にも円偉の個性を尊重した接し方をする──しかし、ただ、それだけなのだった。


 ──そんなはずはない。私にとって貴方がそうであるように、佳卓殿、貴方にとっても私は特別な存在のはずだ


 円偉は歯がゆい。貴方ほどの才人に釣り合う人物など他に誰がいるというのか。やけつくほどにそう思う。


 ──国の中枢にいる私こそが貴方と親しく交わるにふさわしい。それが何故お分かりにならない。


 円偉は心の中で叫んでいた。「貴方を理解できるのはこの私だけなのに! 私以上に貴方の友人に相応しい人間などいないのに!」と。


 佳卓こそが真っ先に円偉の側に来て、円偉と同じ生き方をするべきなのだ。そして二人で力を合わせれば、この世を完全に美しく作り変えることができるだろう。円偉があの姫君をお見かけした時に決意したような、正しく整った治世が実現するのだ。佳卓が自分と共に歩んでくれさえすれば──。


 ──それなのに……。佳卓殿、貴方はどうでもいいことに囚われてしまっている。


 佳卓は幼少時から活発であったせいで、ついうっかり武人の道に足を踏み入れてしまった。そして武人生活で得てしまったしがらみから離れられることは容易ではないのだろう。また、徳を備えた人物だから目の前に利益を求める人が現れたならその願いを叶えようとしてしまう。


 ──しかし、貴方の素晴らしい能力は、そんな俗事に費やされるべきではない。


 自分と佳卓の間に邪魔な人間が群がっている。武官の麾下や、目先の利益を求める東国の民、不見識な地方官吏。

 あんな者たちにかまけているうちに、どんどんと佳卓は本来の佳卓から逸れていく。


 ──正しい道に戻ろうにも、貴方の優秀さを食い物とするくだらぬ人間が妨げる。ああ、この私が救い出して差し上げたいと願うものを。


 それなのに事態は更に悪い方向に進んでいく。今日、そのことがはっきりした。


 ──女東宮が学問好きと聞いて期待していたのに……。幼い少女でも、導き次第で徳ある天子になれると見込んでいたのに……。


 やはり、錦濤などという低俗な商人の町で生まれ育った女の子どもなどに真の教養など身に着くはずもなかったのだ。この御所でちやほやされて浮かれてしまい、この自分が紀行文で描いた純真で清らかな民の姿など興味を持てないのだろう。


 徳ある帝であれば、この自分を評価するはずだった。その民と心の交流をする自分を褒め称えこそすれ、「民に関心がない」などと侮辱するはずがないのだ。


 そして天子の威徳があれば武力を要する場面などなくなり、佳卓も文官として手腕を発揮するようになる。そして、自分と佳卓は、深く豊かな学識と徳と仁とを以って、天下国家を論じて過ごせるようになる。それこそが円偉が思い描く美しい朝廷の在り方だった。


 ──あの女童は駄目だ。


 あの女童は、自分と佳卓との間の新たな妨害者だ。それも、これまでにないほど厄介な。

 愚かな女児でも東宮は東宮。年月が経てば帝となる。

 あのような地位にいる人間というのは、どんなわがままもまかり通ってしまうのだ。あの豺虎のように。


 あの女童が立ちはだかるかぎり、自分といえども佳卓を正道に戻せない。今日の合議でのように、佳卓はあの女童の意を汲んで行動せざるを得ない。

 円偉は胸を掻きむしりたくなる。


 ──あの女童のせいで、あれほど貴重な才能が潰されてしまう!


 これまでずっと待っていた。佳卓が自分から遠ざかるのを哀しみ、焦り、悔しく思っていた。

 それなのに、自分には佳卓を救い出すすべが見つからない。






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この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16817139557323444123



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