十一 翠令、典侍の悔恨を聞く(一)
季節の変わり目、雨と共に冷え込む日もあれば、晴れた日には汗ばむ陽気にもなる。
お身体が弱い今上帝には気候の変動がご負担のようでしばしば床に就いてお過ごしになるという。
姫宮は梨の典侍に口を尖らせて不満をおっしゃる。もうこの二人に最初の頃のような遠慮はない。
「梨の典侍、今日も清涼殿に行って帝にお会いするのは無理なの?」
「やはり朝からお休みのままであられます。ご訪問はお控えなさいますよう……」
「帝は私と会うのを楽しみにして下さってて、私もとーってもお話したいのだけど……」
姫宮は帝のご体調の良い時に清涼殿に招かれる。翠令の身分では清涼殿のお側に度々上がるのはあまりに畏れ多く、また帝の近辺は佳卓が近衛の中でも選りすぐりの武人に警護させているため、梨の典侍だけが付き添うことになっていた。
典侍によれば、帝も姫宮をお気に召したようで双方笑みを絶やさず明るい様子でご歓談なさるらしい。だが、帝は本当にお身体が思うようにならない
「帝は宮様とのお話があまりに楽しく、ついお身体の限界を超えてしまわれるようであらしゃらります。先日も、宮様の帰られた後に高熱を出して倒れられて……」
「それは……申し訳ないことね……。私、お優しい帝のこと、お兄様が出来たみたいでとても好きなんだけど……。ご負担をお掛けしているなら、ご訪問も慎まなければならないわね」
翠令はどちらも気の毒に思う。姫宮は物心つく前に両親を流罪先で失い、血の繋がった存在と接するのは帝にお会いするのが初めてだった。穏やかな帝と活発な姫宮は互いに互いの良さを認めて意気投合なされたようなのだが……。
兄ように慕わしい帝と会えない姫宮も気の毒だが、そのような愉快な時間ですら楽しむご健康に恵まれていない帝もまた気の毒なことだった。
梨の典侍が姫宮に申し上げる。
「帝が臥せっておいでの間、この昭陽舎にお越しのお客様も増えます。装束を整えて差し上げましょう」
「うん、ついでに髪も梳いてくれる?」
「よろしゅうございますとも」
確かに、帝がご不調の折は昭陽舎への訪問者が増える。
単に清涼殿に帝のお見舞いに上がったついでなのか、病弱な今上帝の次の代を見越してのことか、その思惑など翠令には推察しかねるが……。
雲が空をゆっくり走り、晴れと曇りがそのたび変わるこの日に左大臣が訪れた。あの佳卓の父だ。
白髪交じりの頭髪を冠に綺麗に納め、丁寧な所作で姫宮の御前で礼を取る。口にする話題もごく常識的で人当たりも良い。
かつての貴公子がそのまま年齢を重ねたような方だと翠令は思う。あの佳卓の父親だとは思えない。
佳卓には兄がおり、何かと華やかな次男坊に比べて凡庸と評されていると翠令も女房達から聞いたが、父と兄が穏やかな中で佳卓が異端であるのだろう。
姫宮も左大臣をお話がしやすい相手だとお考えになったようだった。
「あのね、左の
小首をかしげて質問なさる。
「はい、なんでございましょう、姫宮」
「円偉から円偉の書いた本を貰ったのだけれど」
「ああ、私も円偉殿からいただきましたよ」
左大臣の方が円偉より年上だし位も高い。けれども、左大臣はこだわりなげに敬語を使う。円偉は朝廷中から敬意を払われていると度々聞くが、この左大臣もまた彼には一目置いているようだった。
そんな円偉が書いた書物をつまらないと感じる自分や姫宮の方が何やら少数派のようだ。だからこそ、他の人々が円偉の何を評価するのか知りたいと翠令も思う。
「その円偉の本……どこが面白いかしら?」
「は?」
左大臣は純粋な気持ちで素直に聞き返したようだった。彼にとっては、あの才物円偉の書く本がつまらないわけはないと思うのだろう。
商売人の街、
姫宮は質問を微妙に変えてみられた。
「ええと、円偉は色んな国の話を書くけど、どこの国の話が面白いかしら?」
なるほど、と翠令は内心で手を打った。このように尋ねてみて、左大臣がどこそこの国の話が面白いと答えたら、そこを読み返してみればいい。そうすれば、あの本の面白みを理解するとっかかりになるだろう。
「はて……。どこの国であろうと、地方の民の素朴な暮らしが上手に描かれていると思います。鄙の人々は良いですねえ、私たち都人が忘れてしまった大事なものを持っている。そういった民と触れ合う円偉殿の姿勢が素晴らしい。同じく政を預かる者として見習わねばと思いますよ」
うんうんと頷きながら話す左大臣の口調にはどこか諭すような風がある。姫宮も、先日までその「地方の民」でいらしたし、円偉の本の中の地方の民の扱われようを不満に思ってらっしゃるのだが。
姫宮は小さく息を吐いて、別の切り口を試してみられた。
「ええとね……例えば
「おやおや」
左大臣の顔に広がる苦笑に、翠令も心の中で落胆する。「ああ、左大臣は今、姫宮のことを所詮は幼い子供に過ぎないと思っているのだろうな」と。
壮年の男性は、相手を「女子ども」だと思ったときに独特な顔をする。にこやかさを顔の表面に貼り付けながら、同時に「やれやれ」と困惑していることも隠さない。
「姫宮は綺麗な宝玉などがお好きなのでしょうねえ」
「ええと……真珠は確かに綺麗だから好きなんだけど……この国の色んな珍しい物事を知りたいの……」
「はあ、珍しいものをお知りになりたいと……。では、説話集などをお読みになると良いかもしれませんねえ」
「そうね……」
一般に説話集と言うのは手軽な読み物だ。左大臣も「子供向け」だから姫宮に向いていると言いたいのだろう。
だが、平易な読み物だから劣っているとは限らない。説話集の方がその土地のことを鮮やかに描き出しているなら、そちらの方が読むに値するはずだ。
それは姫宮も翠令と同じようにお思いのようだった。
「うん、説話集は好きよ。私も何冊か持っているけど、読んだことがない本がまだあるなら読んでみたいわ。それから、私、子供向けしか読めないわけじゃないの。もう少し大人向けで、この国のあちこちのことが分かるご本はないかしら?」
「そうですねえ、それでは風土記などがよろしいかもしれませんねえ。大学寮に保管されていたかと思いますよ」
「左の大臣は読んだ?」
風土記とは、一昔前に時の帝の命で各地からその地域の情報を取りまとめて献上された書物だ。
「いやあ、昔のものですし、公卿が読むようなものでもございません。そんなものより燕の哲学や歴史の教養の方が大事でございますからね」
それから話題は、円偉同様に、天子は徳を備えるべきなのだというものに続いていった。
左大臣は現実のこの国の地方に興味がなく、そして、女の子どもが興味を示すものに興味を持とうとも思わないのだろう。
あまり実りのある話は伺えなかったな……と翠令は思っていたが、ところが、左大臣が帰った後の姫宮は目を輝かせておいでだった。
「風土記を読みに行きましょう! 翠令」
弾むお声に、翠令は首を振る。
「風土記という書物の分量は分かりませんが、いくらでも昭陽舎に運ばせることができましょう」
「ううん、私、大学寮ってとこも見てみたいの。だって、ご本が沢山あるのでしょう?」
大学寮は……と翠令はこの都の地図を思い起こす。
「姫宮、大学寮があるのは大内裏の外でございます。昭陽舎から内裏を出、さらに朱雀門の向こうです。大学寮がいかに朱雀門のすぐ南とはいえ、東宮様が御所を出るのは大事です。ただ本を読みたいなどという理由だけでは帝も軽々にお許しにはなりますまい」
「御所の外だから行ってみたいの。その外の様子を見てみたいわ。こっそり内緒でお出かけすればいいじゃない」
「姫宮!」
「錦濤ではよく二人であちこち出かけたでしょう?」
「京の都は錦濤とは違います。姫宮のご身分も!」
姫宮は憤然とする翠令ではなく、梨の典侍に目を向けられた。
「ねえ……。ずうっと同じ場所だと息が詰まるわ。それに私は京に住む民の暮らしが全く分からないの。ちょっとだけ、ちょっとだけお外に出て見てみたいの。駄目かしら?」
いくら梨の典侍が初対面時よりずっと姫宮に甘い態度に変わったとはいえ、到底お許しさしあげられることではない。
現に梨の典侍はふうっと深いため息を吐いた。
──しかしながら、その次に典侍の口から出たのは、安心しかけた翠令を仰天させるものだった。
「よろしゅうございましょう。東宮様と分からぬよう女童の格好をし、翠令殿にしっかり護衛をして頂きましょう」
「典侍殿!」
翠令は悲鳴のような声を上げた。
*****
この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。
今回は下記のとおりです。
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風土記の保管場所は?―「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕え或ハ近衛大将ノ大詐術」の「十一」を投稿しました!
https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16816927862079770294
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