十二 翠令、典侍の悔恨を聞く(二)

 それから日が暮れるまで、翠令は典侍の手の空いた隙を見ては声を掛けた。「あのようなことをお許しになられては困ります」「無茶なことをおっしゃいますな」などなどと……。


 懸命に翻意を促すが、典侍は静かに笑ってのらりくらりとかわすのみ。


 姫宮の方はすっかりはしゃいでおられた。そのためか、御帳台に入っていつもより早くストンと寝付いておしまいになる。


 昭陽舎の女主おんなあるじがお休みになり、燈台も灯籠も明かりは全て消された。月の光だけが、降ろされた格子をくぐって屋内に忍び込む。


 梨の典侍がひそやかな声で、ひさしに侍っていた翠令を誘った。


「翠令殿、今宵はしばらく晴れそうじゃ。二人で、春の夜の月でも眺めませんかの」


 翠令は「是非とも」と即答した。姫宮は明日にでも翠令と「内緒のお出かけ」をなさるおつもりだ。典侍に止めてもらわねば困る。


 典侍は簀子すのこに席を設けると、女房達に命じて酒肴を整えさせた。翠令は、その準備が終わるのも待たず、じれったさを隠しもせずに詰め寄る。


「典侍殿。本当に姫宮に私的な外出をお許しになるおつもりですか。東宮のお出ましは立派な行啓。帝に奏上し、色々な準備が必要なはず。鄙育ちの私とてそれくらいのしきたりは知っております」


 典侍は「しきたり、か……」と呟いて目を伏せた。


 典侍はその目を翠令に戻すことなく、そして月に向かってでもなく、昭陽舎の母屋の奥に向けた。初めて錦濤きんとうの姫宮と対面した時に垣間見せた、悲しみに沈んだ表情だった。


 その時の翠令は何も事情を知らなかったが、今なら分かる。


 典侍は一気に年老いたようなしわがれた声を出した。


「翠令殿も誰かから聞き及んでおられるであろう、この昭陽舎の前の主のことを……」


「……竹の宮の姫君、とおっしゃる方のことは佳卓かたく様から伺いました。あまりに美しいゆえ惨い目に遭われたと……」


 典侍は首を巡らし月を振り仰いだ。


「真にお美しい姫でいらした……。まるでこの月のように中から仄かに光るようで……。そして、ひっそりとした佇まいの本当に静かなお子で……」


 濃紺の空に浮かぶ白い月が叢雲の端を銀色に照らしている。しかし、黒々とした染みのような厚い雲が月に掛かれば、その光も消えてしまうだろう。月はただ黙って風に流れる雲に飲まれるだけのこと……。


 典侍は酒杯を手に取った。翠令もそれに倣う。


「私の家はそれなりの家格があっての。父上がご存命であれば入内も叶うほどではあった。それゆえ宮仕えの最初から典侍として竹の宮の姫君のお世話を差配する立場であった」


 典侍として後宮を取り仕切るのならば、たしかに高位の貴族の生まれであろう。翠令は思わず姿勢を正す。


「どうされた? 翠令殿」


「いえ、ただの商家の娘の私などがこうして身分高き典侍殿と差し向かいとは、考えてみれば畏れ多いことと思いまして」


 典侍は翠令が少し驚くほど強く首を振った。


「私など……私など、ただの役立たずじゃ。翠令殿の方が……っ!」


「典侍殿?」


 典侍は酒杯を乱暴に下ろすと右の袖で目頭を押さえた。閉じられた瞼が細かく震えている。そして典侍は身を捩らんばかりに声を振りしぼった。


「この典侍、お仕えする姫君を守って差し上げることが叶わなかった。私はただ名門貴族出身で宮中作法に詳しいだけの女官に過ぎず、翠令殿のような強さがなかった。しきたりなど何も姫君を守りはしなかったのに……っ」


 膝の上に置かれた典侍の左の拳は、節が白くなるほどに固く握りしめられている。


 翠令は胸を衝かれた。あらましは佳卓から聞いていたが、竹の宮の姫君に深い愛情を注いできた典侍が嘆く姿を目の当たりにすると、痛ましいとしか言いようがない。


「私は竹の宮の姫君をしきたり通りにお育て申し上げた。誰からも褒め称えられる貴婦人にお育てせねばと私も気負っていたから、厳格にしきたりを守って暮らしておった。そして、姫君もまた素直に大人の言いつけを守る御子でいらした。御簾の外に出ることもなく、屋内で立ち歩くことも稀で……」


「……」


 翠令は後に武人になるほど、子どもの頃から体を動かすことが好きだった。自分の少女時代と比べると、大人からのいいつけとはいえそこまでじっとしてお過ごしとはさすがに高貴な姫君というのは違うものだと思う。ただ……。


「やんごとなきあたりではそのようにお暮しと風聞としては存じておりました。私などからすると、あまりに極端に運動不足では足萎えになりそうで心配ですが……」


「そう……足萎え……。姫君はそもそも走るという動作もご存知なかったし、いざ走ろうとなさっても足が萎えて上手くいかなんだ……」


「走る?」


 この御所で、貴い女君が走る必要などあるだろうか。


「あの日、あの夜……。豺虎けだものが姫君に襲い掛かってきたあの時……」


 翠令は口元を引き結んだ。典侍は、先帝が竹の宮の姫君を襲った事件を語ろうとしている。


「姫君は逃げようとなされた。生まれて初めて走ろうとなされたのじゃ。けれども、体が上手く動かずぎくしゃくとしていたし、数歩ばかり前に進んでもすぐ転んでしまわれて……。母屋もやから廂、簀子と転げ出ては倒れ、また宙を掻くように起き上がって外へ走ろうとし……」


「……」


「そのような拙い足取りでは易々と男の手に捕らえられて、また母屋に引き入れられる……」


 典侍が耳をふさぐ仕草をした。


「幼い姫君が『嫌あ、嫌あ』と甲高い悲鳴を上げて……」


 翠令の耳にもその童女の、あまりにも凄惨な声が聞こえてくる気がして、ぞっと鳥肌が立つ。そして典侍は今、記憶の中のその声をはっきり聞いているに違いない。


 翠令は思わず典侍の傍に寄り、その肩を抱いた。典侍の肩は激しく上下し喘ぐような呼吸をしている。


「典侍殿……」


 梨の典侍は何かを言おうとして、たるんだ頬をひくつかせるが、それは言葉にならない。


「……」


 典侍は翠令の手に軽く手を添え、意識して呼吸を深くしていった。そして、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


「……」


 暫くの無言の後、典侍はそれまでとは異なり、やや明るめの声を出した。


「錦濤の姫宮はお元気な御子じゃ。パタパタと小気味よい足音を立てて歩かれるのを、十の少女はこうも活発であるものかと新鮮な気持ちとなる……」


「姫宮は……。同じ年頃の女童の中でも活動的な方だと思います」


「そうやもしれぬの。同じ二本の脚があっても、それを使って外を知ろうとするかどうかはその脚の持ち主の個性であろう。錦濤の姫宮は見知らぬものを知りたいという意欲が大きくていらっしゃる」


「さようでございますね」


「その気持ちの赴くままに、外を出歩き、書物を嗜んでこられた。そして身も心も健やかに伸びやかにお育ちになった」


 そうだな、と翠令は思う。自由な街、錦濤こそが破天荒な東宮を育て、そして女武人という風変わりな存在を生んだ。


「錦濤の姫宮は、竹の宮の姫君とはまた違った愛らしさがおありじゃ。水の中でぴちぴちと跳ねる瑞々しい魚のよう……。私は川魚しか知らぬが、錦濤の大海はより大きな魚を生み出したのやも知れぬ……」


 今度は典侍が翠令の手を両手で握った。


「姫宮がご覧になりたいものを自由にお見せしたい。お出でなさりたいところに、お出かけさせて差し上げたい。大学寮を見てみたいと仰せなら、その願いを叶えて差し上げたい……」


 翠令は黙って顎を引いた。その翠令の瞳を典侍が覗き込む。


「翠令殿、私は姫宮と翠令殿を拝見していて思うのじゃ。姫宮のような燕風の動きやすい服を、私も竹の宮の姫君にお着せ申し上げていたら……。翠令殿のように私自身が剣の力で姫君の敵を斬って捨てられる力があったなら……。そうであれば竹の宮の姫君はあのような悲劇から逃れることができたのかもしれぬと」


「典侍殿……」


「いや、過去のことを翠令殿に申しても詮なきこと。だが、錦濤の姫宮のために私は自分の愚かさを変えようと思う。しきたりなどに固執せず、真にお仕えする御方のために何が必要かを考え実行できるようになりたいのじゃ」


 翠令は少しの間黙って頷いた。


「ご立派です、典侍殿。典侍殿は高位の貴族の家にお生まれで、そして長年にわたってこの後宮を取り仕切ってこられた。身分と経験を兼ね備えた方が、年齢を重ねてなお自分を変えられるということは、なかなかできることではありません」


 翠令は笑った。自分の親ほどの年齢の女性が、過去の悔恨と未来の希望とを語ってくれた。翠令もその願いを叶えて差し上げたいと思う。


「典侍殿がそこまで覚悟を決めて姫宮を大らかにお育てしようとなさっておられる。ならば私も微力を尽くして、大学寮まで姫宮を護衛いたします」


「そうか、有難い、翠令殿」


 翠令は軽口を叩いて見せた。


「姫宮は幸いご健脚です。脚が萎えぬよう、ここで長めのお散歩をしておくのもいいやもしれませんね」






*****


この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。

今回は下記のとおりです。

日本の後宮の美しさ―「錦濤宮物語 女武人ノ宮仕え或ハ近衛大将ノ大詐術」の「十二」を投稿しました!

https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16816927862165714303

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