第105話 命を継ぐもの

 視界が歪んだ。

 それは、流れ落ちる涙のせいだ。


 アルヴィンの腕に、目を閉じたクリスティーがいた。

 息は、ない……

 神を封印し駆け戻ったとき……彼を迎えたのは、沈痛な面持ちのフェリシアだった。


 既に彼女は、こときれていた……


「死ぬな! クリスティーっ!!」


 悲痛な叫びが、地下にこだまする。

 アルヴィンは、死を受け入れられない。受け入れられるはずがない。

 彼女が死ぬはずが……ない。


 だが、いくら声を大きくしたところで、どれだけ強く抱きしめたところで、知性と気高さに溢れた瞳が、再び開かれることはない。

 冷ややかな現実を突きつけられ、アルヴィンは打ちひしがれる。


「君は……君は、また僕を残して、どこかへ行ってしまうつもりなのかっ!!」


 その声に、応える者はいない。

 見かねたフェリシアが肩に手を置こうとし──ピタリと硬直した。


「──こうなることは、分かっていた。だから、再会を望まなかったのよ」


 不意に背後の空気が揺らぎ、ただならぬ魔力が漂った。フェリシアが息を呑む。

 アルヴィンは、ぞっとしながら振り向いた。


 すぐ後ろ──一瞬前まで、誰もいなかったはずの空間。そこに、女が立っていた。

 カトレアの花を思わせる、成熟した優美さをまとった女を、アルヴィンは知っている……


「白き魔女……!?」

「ただの偶然よ」


 神に道連れにされ、聖櫃に封じられたのではないのか──アルヴィンが問うよりも先に、回答は示される。


「神の手は、私には届かなかった。ただそれだけ」


 絹糸のような艶やかな白髪を揺らし、魔女はさらりと告げる。

 アルヴィンは最大級の警戒を払い、その顔を注視した。


 娘の遺骸を前にして、千年を生きた魔女から、何の感情も読み取ることはできない。

 いや……ほんの僅か、厚い感情のヴェールの向こう側に、哀しみが横切ったように見えた。

 見間違いかもしれない。アルヴィンは、一縷の望みにかけ、問う。 


「白き魔女よ……不死者であるあなたなら、クリスティーを救えるのではありませんか……?」

「救える」

「でしたら──!」

「だが、救わない」

「なぜですっ!?」


 一瞬湧きあがった希望は、淡々とした拒絶によって打ち砕かれる。

 アルヴィンは悲鳴じみた叫びをあげた。


「クリスティーは、あなたのために命を懸けたのですよ!?」

「救ったところで、新たな苦しみを与えるだけ。遠からず大陸は、滅ぶのだから」

「神は聖櫃に封じました!」

「あなたは、何も分かっていないようね?」


 白き魔女の顔に浮かんだのは、嘲りというよりは、自嘲に近い。

 続いたのは、予想だにしない、深刻な、そして絶望的な言葉だ。


「滅びは、回避されてなどいないわ。先延ばしされたに過ぎない。不死者である私がいる限り、秩序の崩壊は続く。直に、第二、第三の神が現出するわ」

「次の……?」


 想像もしなかった宣告に、アルヴィンは言葉を継ぐことができない。

 神は──一体だけだ。

 何の疑問を持つこともなく……当然のように、そう思い込んでいた。 

 それが、違うというのだ。


 魔女は聖櫃を一瞥し、黒髪の審問官へと重苦しい視線を投げやる。


「もはや聖櫃は使えず、姉たちもいない。次を防ぐ余力は、大陸にはない。──娘は、このまま逝かせる」

「それは……違う!!」 


 アルヴィンは声を張りあげ、白き魔女を睨みつけた。

 もちろん……その程度で動じるような相手ではない。平然と視線を返されながら、必死に考える。

 神に対抗する力は、大陸に残されていない──それは、事実だ。


 聖櫃と原初の魔女を失っただけではない。教会は、不死をめぐる内紛の挙げ句、空中分解の一歩手前だ。


 明日か、一ヶ月後か、一年後か……次の神を、退けられるだろうか。 

 答えは、否だ。

 次に神が現出したときこそ、大陸の終焉となるだろう……


 いや──


「次は起こりません。決して、起こさせません」


 アルヴィンは、真剣な光を瞳にたたえ、断言する。

 滅びを受け入れるなど、できるはずがない。

 諦めるのは、彼女が無駄死にだったと認めるに等しい。


「神を駆逐する術が、あるとでも?」  

「抗う術は……ありません。ですが、現出を食い止めることはできます。あなたを──不死から、解放します」

「不死を解く術など、存在しない」

「銷失の魔法の使い手が、僕の仲間にいます。簡単な試みではないでしょうが……千年の苦しみから解き放てるはず……いえ、解き放ちます」


 確信があるわけではない。

 メアリーはステファーナの呪傷でさえ打ち消して見せた。だが……不死の魔法は手に負えない可能性は、十二分にある。

 心を読む魔女が、それに気づかないわけがあるまい。


 白き魔女は無言で、じっとアルヴィンの双眸を見つめた。目を反らしたい衝動を、必死に堪える。

 今反らせば、彼女の命も大陸の命運も尽きる──アルヴィンには、そんな予感がある。

 嫌な汗が、額を伝う。

 永遠と錯覚しそうな沈黙を経て、空気が動いた。


 クリスティーの顔に目を落としたのは──白き魔女だ。


「この子は、やると決めたら決して意思を曲げない。昔からそうだった」

「……?」

「あなたも、同じようね?」


 魔女は、意味ありげな微笑を浮かべる。

 その真意を……疲労仕切った脳細胞が、周回遅れで理解し、アルヴィンは目を見開く。


「それでは……!?」

「命の灯火を戻す。ただし──誓いなさい。二度と、大陸に滅びをもたらさないと」

「必ず!」


 アルヴィンは、躊躇なく即答した。

 白き魔女はひざまずき、クリスティーの額に触れる。 

 途端、三人を中心にして、青白く輝く魔方陣が浮かびあがった。


 魔方陣は二つある。それぞれが逆方向に回転しながら、速度を増す。 

 周囲の空気が渦巻き、魔方陣が眩い明滅を繰り返す。

 そして──


 そのときは、速やかに訪れる。


「クリスティー……!!」


 彼女の瞼が……薄く開かれた。

 アルヴィンは震えた。こみあげた感情が、言葉にならない。

 一度は永遠に失ったと絶望した。その彼女が……戻ってきたのだ。


「……アル……ヴィン……?」


 花唇から、当惑した呟きがこぼれる。


 クリスティーの碧い瞳が、もうひとり──傍らに立つ、魔女の姿を映した。

 けぶるような睫が震え、頬を一筋の涙が伝った。 


「…………母さん……?」


 運命に隔てられた母子が、視線を交わす。

 地下に、光が満ちる。

 それは破壊的なものではなく、慈愛に満ちたものだ。

 アルヴィンは頭上を見あげ、朝日が差し込んだこと知った。


 長い長い夜が、ようやく終わった。

 新たな一日が始まり、いずれ夜が来る。

 それが大陸の終わりを意味することは、もうない。未来を絶望する必要もない。


「共に生きよう、クリスティー」


 彼女の手を握り、アルヴィンは泣き笑った。


「当然ね」


 頬に手を寄せ、クリスティーが笑い返す。

 全てが終わったわけではない。

 だが、この先にどんな困難があったとしても、彼女となら乗り越えられる。


 滅びの足音は、もう聞こえない。

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