第103話 すべてに終止符を

 アルヴィンは全力で疾駆する。

 迷いを振り払うかのように、前だけを見て走る。


 ぱっくりと口を開けた地割れを跳び越え、最短距離で巨岩の基部へ辿り着く。

 頂までの高さは、民家の三階分はあるだろう。

 躊躇いなく、アルヴィンはよじ登り始めた。


 フェリシアに斬られた左手は、力が入らない。命綱はなく、右手と足の力だけで登るのは、消極的な自殺と大差ないのかもしれない。

 途中で落ちれば死ぬ。


 とはいえ、大陸が滅びれば……どのみち待ち受けるのは死なのだ。 

 落ちたところで、それが早いか遅いかだけの差に過ぎない。

 妙な論法で開き直り、アルヴィンは急ぐ。


 神と魔女たちの死闘は続いている。

 爆風に背中を叩かれながら、時に滑り落ち、神と自分に悪態をつき、這いあがる。

 指先から血が滲む。爪も何枚か、剥がれたかもしれない。

 だが、些細なことだ。


 彼女の成そうとしたことを、やり遂げる──アルヴィンの心中には、その思いしかない。

 伸ばした手が、空を掴んだ。

 頂に達したことを、遅れて理解する。


 視線の先に、岩肌に突き刺さったグングニルがある── 


 よろよろと近づき、柄を握る。

 抵抗もなく、グングニルは意外なほどあっさりと抜けた。驚いたことに傷ひとつない。

 アルヴィンは、聖櫃を鋭く見据えた。


 神は既に、半身まで外に出てきている……

 呼吸を整えるとグングニルを構え──唐突に、身体がよろめいた。


 呪詛のような響きが、不快に耳を打った。


「……やめなさいっ……!」


 発せられた声は、聴く者の心を凍りつかせるような、おぞましさが内包されていた。

 反射的にアルヴィンは足元を見やり……目が合う。


 おそらく九十歳を超えているだろう。下半身を失い、上半身だけとなった老婆が、そこにいた。

 アルヴィンの足を、枯れ枝のような腕が掴んでいる。瀕死の者とは思えない、ゾッとするような力だ。


「……白き魔女に当たったらどうするのです!? 永遠に不死を失ってしまう!」


 濁った両眼に宿されているのは、不死への固執だ。

 老婆が何者であるか、アルヴィンは直感した。

 これこそが、ステファーナの本来の姿なのだろう……


 楚々とした、金髪碧眼の少女の面影などない。血と泥と妄執にまみれた、人の形をした何かがそこにいた。


「──この期に及んで、まだ不死ですか」


 アルヴィンは怒りをこめ、老婆をつきはなす。声に辛辣な響きが伴った。


「あなたが不死者になったところで、ロクな世界になりませんよ。不死も陰謀も、もううんざりです」

「わたしは死なない! わたしを置いて、大陸を導ける者などいないっ……!」

「あなたの導きなど、誰も求めてはいません。あなたは自分の都合のいい世界が欲しいだけ。もう、いいでしょう。馬鹿げた夢は、これで終わりです」

「ま゛ぢぢなざいい゛いっつつつ!!」


 狂気と毒気で目を血走らせた老婆が、ひび割れた怒号をあげた。

 それは切り札である──魔法の発動を意味した。


 回避不可能な至近距離から、青白い爆炎が襲う。


「──視線だよっ!」


 フェリシアが叫ぶよりも早く、アルヴィンは動いた。

 グングニルを投げ出し、短剣を閃かせる。

 投じるわけではない。短剣は、アルヴィンの眼前にある。


 目元を隠すように広げた白銀の刃が、鏡のような輝きを放った。

 その刹那。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」


 爆風がアルヴィンの前髪を揺らした。

 青白い劫火に包まれたのは──ステファーナだ。

 悲鳴をあげながら、老婆は地面をもがく。


「なぜ……な……っ!? なぜ!?」

「僕をハメたつもりで、あなたの方が足元をすくわれていた。それだけです」


 アルヴィンは短剣を投げ捨てると、冷ややかに宣告する。


「──あなたの魔法は月がなくとも使える代わりに、別の制約がある。そうでしたね? あなたの制約は、視線だ。視線を交わした相手に、魔法が発動する」


 言ってアルヴィンは、フェリシアを一瞥する。


「取引を覚えていますか? あなたは、フェリシアの精神支配を解いたフリをした。ですが──ほんの一瞬だけ、本当に支配が切れたのですよ。彼女は、チャンスを見逃さなかった」


 それは取引を持ちかけられ、フェリシアがアルヴィンを斬りつける、直前の出来事だ。

 耳元で、ささやいたのである。


 ──会主の制約は、視線だ、と。


 咄嗟に反応できたのは、そのメッセージのおかげだ。

 短剣を手鏡のようにして視線を反射させ、結果ステファーナは、自らの魔法に焼かれた。

 フェリシアの機転が、アルヴィンを救ったのだ。


 老婆は反応しない。いや、反応できなかった。

 教会を影から支配した魔女は、もはや人ですらなく、炭化した黒い塊にすぎなかった。息はない。


 ──それが、父アーロンを死へ追いやった、仇敵の最期だった。


 復讐を終えて……アルヴィンの心には、何の感情もこみあげない。感傷にふける暇などない。

 決着をつけなくてはならない、強大な相手がまだ残っている……

 グングニルを拾いあげ、槍先を聖櫃へと向ける。


 鋭く睨んだ先に、今まさに、聖櫃から飛び出そうとする神の姿がある。

 アルヴィンは大きく息を吸い込み、声の限り叫んだ。


「神よ──! これで終わりだ────っ!!」


 すべてに終止符を打つ、閃光が走った。

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