第91話 氷の微笑

「──申し訳ありません」


 ステファーナはアルヴィンへ向け、嘲笑の光を投げ打った。


「フェリシア女史の精神支配を解く──あれは、噓です」


 悪びれた様子もなく、ぬけぬけと言ってみせる。

 上辺だけの誠意をちらつかせ、グングニルを奪う駒として使う──度しがたい悪辣さに、アルヴィンの怒りは増す。


「卑怯な真似を!」

「わたしの恩情を二度も拒絶した、あなたが悪いのですよ」

 

 薄い刃のように危険な笑みを、少女は口許にたたえた。

 微笑みと悪意が複雑な化学反応を起こし、地下の気温を低いものへと変える。


「こんな結果となって、残念でなりません。全ては、あなたの強情が招いた結果なのです」


 勝手極まる論法に、アルヴィンは歯ぎしりをする。

 その耳元で、風がうなった。


 鋭い刃音が薄闇を切り裂くと同時、アルヴィンは後方へ跳んだ。

 上質紙数枚分の距離を置いて鼻先をかすめたのは、白銀の軌跡だ。数本の黒髪が宙を舞う。


 無駄話はここまで──という、意思表示なのだろう。


 フェリシアが短剣を手に、猛然と斬りかかってくる。獲物に、体勢を立て直す暇を与えない。

 アルヴィンが後退した距離と同じ分、彼女も間合いを詰める。


 ──早いっ!


 本来の運動神経の良さも手伝って、フェリシアの身のこなしは恐ろしく俊敏だ。救いがあるとすれば、剣捌きが素人の域を出ないことくらいか。


 ただし……左腕は負傷し、右手にはグングニルがある。この体勢で懐に飛び込まれては、アルヴィンとて打つ手がない。

 ここに至るまでの疲労まで重くのしかかり、動きは精彩を欠く。 


 ──くっ! どうすれば良い!?


 胸中で叫ぶ最中も、剣光はひらめき続け、アルヴィンを容赦なく斬りつける。

 クリスティーの助けは……期待できない。


 いや、助けたくとも、手出しできないのだ。

 けたましい発砲音が、地下の静寂を無遠慮に破った。

 処刑人が、一斉にライフル銃を発砲したのである。フェリシアを巻き込むことへの躊躇は、一ミリも感じられない。


「何を考えてるのよ!?」


 憤激と共に、クリスティーは腕を振る。

 瞬時に、水壁が虚空に出現した。殺到した弾丸は威力を削がれ、地面に落下する。魔女と背教者を屠るには至らない。


 残響が消えるよりも早く、抜剣した処刑人が突撃を開始した。


「アルヴィン、新手よ! いつまで小娘と遊んでいるつもり!?」

「彼女を気絶させる! それまで時間を稼いでくれっ」

「簡単に言わないで!」


 急迫する処刑人の数は、二十は下るまい。大盾を構え突進する様は、死の壁が迫りくるかのようだ。

 クリスティーは水の鞭を喚びだすと、前方を睨みつける。


 どこまで足止めできるか── 


 先陣を切った処刑人が、血に飢えた狼のように唸った。

 長剣を高く振りかざし、クリスティーに襲いかかる。

 強烈な斬撃は──だが、魔女を駆逐するには至らない。ほんの僅か、クリスティーの方が早い。


 大盾を鞭が打ち据え、男を地面にたたき伏せる。その両脇から、新たな二本の剣光が躍り出た。

 クリスティーの指先が、虚空に蒼い軌跡を描いた。


 無数の水の槍が生まれ、処刑人の足を射貫く。

 濁音で修飾された悲鳴をあげ転倒する仲間を、容赦なく踏みつけ、さらなる新手が肉薄する。


「しつこい連中ね!」


 仲間をいくら失おうと、怯まない。

 ステファーナに付き従う処刑人は選りすぐりの、そして忠実なしもべなのだろう。

 死を恐れず、動きは高度に統制されたものだ。


 絶え間なく攻め続けられれば、押し切られる──

 クリスティーの端整な顔に、焦りに似た色が浮かぶ。


「アルヴィン、まだなのっ!?」


 と。

 短剣が、宙を飛んだ。


 アルヴィンの放った蹴りが、フェリシアの腕を強打したのだ。

 武器さえ奪えばあとは──いや、終わらない。フェリシアの口許に、不吉な笑みが浮かんだ。

 アルヴィンは驚愕で目を見開いた。


 グングニルが、彼女の手の中にあった。


 蹴りを放つ、その一瞬の隙を突いて奪われたのだ。信じがたい力だ。

 すぐさま踵を返すと、主人の元へと駆け戻る。


「待つんだ! フェリシア!!」


 必死の叫びは、聞き入れられない。

 フェリシアと入れ替わりに処刑人が立ち塞がり、追撃を許さない。


 背後にも気配が回り込むのを視界の隅で確認し、アルヴィンは舌打ちする。

 瞬く間に、獰猛な包囲網が完成する。


「どうするつもりなの!? グングニルまで奪われて!」


 二人は、背中合わせに立つ。 

 アルヴィンは無言のまま、拳銃を抜いた。状況は……最悪だ。

 

 包囲網が、じわりと狭まった。 


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