第90話 アルヴィンの選択

 空気が重い。

 呼吸を躊躇わせるほどに、重い。

 地下を満たしているのは、粘性を帯びた悪意とでも呼ぶべきものだ。


 気づかないうちに、呼吸を止めていたらしい。アルヴィンは深く息を吸うと、敵意の渦巻く中心を、最大級の警戒を持って見据える。

 視線の先で、あどけない顔をした少女が微笑んだ。


「──良い考えが浮かびました」


 肌がヒリつくような沈黙は、ステファーナの声によって破られる。

 名案を閃いたとばかりに手を打つと、屈託のない笑みが向けられる。


「わたしはグングニルが欲しい、あなたはフェリシア女史を救いたい。それならば、両者を交換するのです。良いアイデアだと思いませんか?」

「生憎ですが、全く賛同できませんね」


 アルヴィンは眉をしかめると、冷淡に突き放す。


「なぜでしょう?」

「あなたが信用に値する取引相手だとは、とても思えません」

「魔女は信用するのに、わたしを信じてはくれないのですね」


 皮肉たっぷりに言うと、ステファーナは傍らに立つ、フェリシアの顔を見あげた。

 続いて薄紅色の花唇から発せられたのは、毒気に満ちた宣言だ。


「それではフェリシア女史は用済みです。自害していただきましょう」

「──っ!!」

「挑発に乗ってはダメよ!」


 激発しかけたアルヴィンの肩を、クリスティーが掴んだ。


「分かっている……!」


 腹立たしい限りだが、主導権はステファーナの手中にある。

 怒りに任せて戦いを挑んだところで、フェリシアを無事に救い出せる可能性はゼロに近い。

 かと言って、グングニルを渡せば切り札を失う……

 大陸が滅べば、結果は同じだ。

 

 どうすべきか──アルヴィンは迷う。

 ステファーナは余裕に満ちた態度で、薄く笑った。


「何を迷っているのです? あなたは仲間を見殺しにできるような、薄情な人間ではないでしょう?」

 

 アルヴィンは、愛らしい少女の笑顔の片隅に、悪魔の影を見た気がした。

 本心を見透かしたかのような言葉は──正しい。フェリシアを見捨てるという選択肢は、ないのだ。

 拳を強く握りしめ、喉の奥から声を絞り出す。

 

「分かった。……グングニルを、渡す」

「それで良いのです。わたしの誠意を受け入れてくれて、嬉しく思いますよ」


 満足げに、少女は口角をあげる。

 そこに誠意などない。あるとすれば、コールタールのようにどす黒い、悪意だけだろう。

 アルヴィンは苦りながら言い放つ。


「ただし──彼女を先に返してもらう。グングニルを渡すのは、その後だ」

「いいでしょう。それでは精神支配を解きましょう」


 要求は、意外にもあっさりと受け入れられた。


「フェリシア女史」


 朗らかに呼びかけると、ステファーナとフェリシアは顔を見合わせ──


「えっ……!?」


 直後、戸惑いの声があがった。

 フェリシアが周囲を見回し、目をしばたかせる。

 驚きが顔に満ち、身体をすくませた。


 無理もない。彼女の時間は、禁書庫の迷宮を出た直後で止まっているのだ。

 それが突然、聖都の地下深く──殺気立った処刑人たちの、まっただ中に放り出されたのである。

 顔を青ざめさせたフェリシアに、少女は胸に手を当て一礼する。


「これまでの、あなたの協力に感謝を。あちらに戻られるがいいでしょう」

「あっち……? ア、アルヴィン!?」


 少女が指さした方向に、見知った顔と、見知らぬダークブロンドの女の姿を見出して、目を丸くする。

 鋭い声が飛んだ。


「フェリシア! こっちに来るんだ!」


 状況が、全く理解できない。

 だが弾かれるようにして、フェリシアは駆け出した。


 妨害はない。処刑人の輪が割れ、彼女をあっさりと通す。

 距離は二十メートル程だろう。

 フェリシアは瞬く間に走り抜け、残り数歩分の距離を跳躍すると、アルヴィンの胸に飛び込んだ。


「アルヴィンっ!!」


 再会の挨拶にしては、少々勢いが良すぎる。

 よろめきつつ、アルヴィンはかろうじて銀髪の佳人を抱きとめる。

 そして、気づく。


 フェリシアの肩が震えていた。

 不本意な服従を強制する精神支配が、心に傷を残したのではないか──そう思うと、胸が痛む。

 彼女を巻き込んだのは、他ならぬ彼自身なのだ。


「フェリシア、危険な目にあわせてすまなか──」


 謝罪を口にしようとした、その時。

 唇が、アルヴィンの耳元に近づいた。


「……ノ……ヤク…………ン」


 単語の断片が、ささやかれる。

 アルヴィンの表情が変わった。


「フェリシア──?」


 まじまじと、彼女の顔を見やり── 


「離れなさいっ!」


 クリスティーが発した警告に、咄嗟に身体が反応した。新たな危機が急迫した。

 上体をひねり、それがあるであろう位置へ、腕を突き出す。

 直感の正しさは、左腕に走った激痛と鮮血が証明した。

 アルヴィンは顔を歪める。


 腕をざっくりと斬られ、血が吹き出る。傷は深い。だが……この程度で済んだのなら良い。

 あと少し遅れていたら、斬られていたのは首だ。

 処刑人の不意打ち……ではない。アルヴィンは、自分の甘さに舌打ちせずにはおれない。


 フェリシアの手に、刃が赤く染まった短剣が握られている──

 続けざま、凶刃が繰り出される。


「フェリシア、やめるんだ!」


 必死の叫びは、届かない。

 彼女の顔は、感情のない、うつろなものへと戻っていた。

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