第88話 破滅へとつづく門

 目を見開いたところで、何も見えない。

 そもそも、開けているか閉じているかも分からない。

 どちらにせよ結果は同じだ。

 眼前に広がるのは──漆黒の闇だ。


 地下水路はアルヴィンを呑み込み、下へ下へと押しやっていく。

 身を切るような冷水に手足が痺れ、酸欠の足音がヒタヒタと迫り来る。

 前触れもなく石壁に叩きつけられて、アルヴィンは声にならない呻きをあげた。


 見えないのだから、受け身も取れない。全てが突然だ。暴力的な奔流に、抗うことはできない。

 壁から引き離され、すぐさま無防備な背中を強打する。


 ──出口まで……息が持つか!?


 そもそも、出口はあるのか。

 飛び込んだのは、正しい選択だったのか。

 一切の光が差さない黒々とした水が、死の色に見えてくる。


 ──いや……! この水路を、白き魔女は通ったんだ……! 絶対に抜けられる!


 アルヴィンは意思の力で、恐怖を自制する。

 死に直面して、無様に取り乱す者を審問官とは呼ばない。

 常に冷静でいること──それは、亡き師の遺した教えでもある。


 ──まだだ……まだ…………まだ……か………………頼むっ!!


 水圧が一段と増し、鼓膜が絶叫した。四肢が引きちぎられそうだ。

 だが──耐えるしかない。

 意識が薄れていく。冷たさは、もう感じない。

 そして、柔らかな光に包まれる……


 押しつぶすかのような水圧が、忽然と消えた。重力も喪失する。

 窒息感から開放され、自由に息ができることに気づく。

 理解がまったく追いつかない。


 天に、召されたのだろうか……?

 

 先刻までの苦しみは、どこにもない。

 難があるとすれば、風切り音がうるさいくらいか。


 ──風切り音?


 違和感を覚え、アルヴィンは目を開けた。そして、驚愕する。

 つい先刻まで、地下の水路を流されていた。

 それが今──空を、落下している。眼下の湖底に向けて。


 わけが分からない。

 手を伸ばせば届く距離に、顔を蒼白にしたクリスティーがいる。意識がないことを見て、アルヴィンは咄嗟に動いた。

 グングニルを投げ捨て、華奢な身体を抱き寄せる。


 黒々とした水面が眼前に迫った。


「──っ!!」


 衝撃が全身を打つ。水の冷たさが襲う。

 最後に、水柱があがった。





「──くそっ!」


 アルヴィンは水面から顔を出し、空気を求めて喘いだ。

 地下水路から脱したと思った直後に、また水だ。

 聖都に来てから、水との相性が良いとはお世辞にも言えない。

 切れかかる意識を懸命に保ちながら、アルヴィンは目を凝らす。


 前方にぼんやりと、陸地が見えた。焦りが見せた錯覚ではない──はずだ。そう願う。

 力を振り絞り、水を蹴る。


 クリスティーを抱え、岸を目指す。だが、濡れた祭服は重く、引き切った手足に感覚はない。

 陸地は遠い。

 自身が浮かぶだけで精一杯な中、もうひとりを抱えて泳ぐのは絶望的な試みに思えてくる。


 水をかき分ける手が止まる。

 身体が沈んだ。 


 ──せめて……せめて彼女だけでも……!


 アルヴィンは、必死にもがく。


「……退け……」


 その時だ。

 聞こえたのは、消え入るような小さな声だ。

 それがアルヴィンの耳に届いた刹那、驚くべき変化が生じた。


 水面が割れた。 

 二人を呑み込もうとしていた水が、左右に引いていく。見る間に幅が二メートルほどの、細長い回廊ができあがった。

 まるで古い伝説にある、海を割った預言者の奇跡だ。

 アルヴィンは、薄く目を開けた相棒を見やった。 


「クリスティー!」

「……耳元で大きな声を出さないで」


 クリスティーが、気だるげに返す。

 間一髪、意識の戻った彼女が、魔法を使ったのだ。

 少しでも遅かったら、溺死していただろうが……ギリギリのところで踏みとどまった。辛くも二人は、危機を切り抜ける。 


 アルヴィンは濡れた前髪をかきあげた。

 地底湖を割った道は、真っすぐに陸地へと伸びている。

 呼吸を整えると──全回復には程遠いが──二人は歩き出す。

 絶望的なほど遠くに見えた陸地は、歩けばそれほどの距離もない。


「私が言ったとおりでしょう? 無事に辿り着いたじゃない」


 地面を踏んで、そら見なさい、と言わんばかりの笑みをクリスティーが向けた。 

 無事に……と評するには、少々過酷すぎた道中である。

 とはいえ、最後の最後で彼女に救われたのは事実なわけで、アルヴィンは減らず口を訂正するつもりはない。


 代わりに、周囲に視線を巡らせる。

 二人が立つのは、楕円の形をした陸地だ。深い黄緑色のコケが、地面をまるで絨毯のように覆っている。

 その表面が、淡く光を放っていた。

 地下を満たす光は、このコケによるものなのだろう。


 少し離れた岩肌に、投げ捨てたグングニルが突き刺さっていた。

 相当な高度から投げ捨てたはずだが……傷ひとつない。

 アルヴィンは無言で引き抜くと、頭上を見上げた。上空は霞み、輪郭をはっきりと示さない。


 数条の滝が流れ落ちているのが見える。落差があるせいだろう、地底湖には霧となって注いでいた。

 おそらく……あのどれかから、二人は落ちたのだろう。

 湖面は静かだ。その果ては見えず、遙か先まで広がっている。


 広い。ただただ、広い。何も知らなければ、外と錯覚しそうだ。

 聖都の地下深くに、巨大な空間がある……信じがたい光景に、アルヴィンは呆然とする。


 そして──


「なんだ……?」


 驚きは終わらなかった。

 視線の先に、わけの分からないものがあった。

 ぞわりとした悪寒が、背筋を這った。


 それは──門だ。


 いや、門なら、どこにだってある。驚きに値しない。

 だが……明らかに、おかしい。


 高さは、少なくとも三十メートルはあるように見える。まるで巨人のために用意されたかのようだ。

 それが、ぽっかりと虚空に浮かんでいるのだ。


「聖櫃への、入り口よ」


 クリスティーが、静かに告げた。


「──あれが……?」

「そうよ。私も初めて見たわ。虚空に浮かぶ、白亜の門──母から聞かされた通りだわ。千年前、母と伯母たちがつくったのよ」

「……原初の十三魔女が? なぜ、聖都の地下に?」

「逆よ」


 返答は短い。

 だが彼女が何を言わんとしているのか、アルヴィンは速やかに理解した。

 原初の魔女が生きた時代は、教会の成立よりも四百年以上古い。

 つまり──


「教会が聖櫃の上に……聖都を築いたのか?」

「ご明察です」


 声は──

 彼女のものではない。

 鈴の音のような響きを伴った、少女のものだ。

 アルヴィンとクリスティーは、咄嗟に身構える。


「ようこそ、背教者アルヴィン。そして、凶音の魔女クリスティー」 


 教会の影の支配者は、朗らかな微笑みを浮かべた。




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