第86話 烈火の眠り姫

 エウラリオが命がけでつくりだした時間を、一秒たりとも無駄にはできない。 

 殺気と熱気の双子が絶叫する中を、背教者たちは必死に走る。


 ──と。

 廊下の突き当たり、至聖の館の最奥に、黒い重厚な扉が立ち塞がった。


「ここだ!」


 その部屋こそが、教皇ミスル・ミレイの寝所だ。

 幸いにも見張りはいない。鍵もかかってはいない。


 寝所に飛び込むや、ウルベルトは叫んだ。


「メアリー! 教皇猊下を目覚めさせろ!」

「分かってる!」


 普段の言動は天然極まりないメアリーだが、今成すべきことは心得ている。急いで視線を巡らせる。

 部屋は広く、がらんとしている。


 家具といえば、ジャガード織りのカーテンをかけた、天蓋つきの寝台ぐらいだ。椅子やテーブル、鏡台すらない。

 この部屋で眠る者の主の身分を考えれば、驚くほど粗末なものだ。 

 メアリーは寝台へ歩み寄り、カーテンをめくった。


 女が、眠っていた。

 白いナイトガウンを纏い、横たわる人物の顔を見やり、息を呑む。


「この人が……教皇さま?」


 メアリーは、思わず困惑の声をあげた。

 教皇は、初代教皇グングニルの後継者であり、地上における教会の最高権威者だ。てっきり、慈悲深い、老齢な女性をイメージしていた。


 それが……どうだろう?


 寝台に横たわる女は、若い。

 二十代後半くらいか……ウルベルトと、そう年齢は変わるまい。

 恐る恐る、女教皇のひんやりとした手を握った。そして、ビクリと肩を震わせる。


 扉が、荒々しく乱打された。

 開きかけた扉の向こう側に、不穏な敵意の存在を見出し、ウルベルトが猛然と体当たりを見舞った。

 廊下から漏れ聞こえる剣戟の音は、止んでいる。


 扉を隔てた先の空間にいるのは、エウラリオではない……処刑人の怒声が、老枢機卿の最期を報せた。  

 

「クソがっ!!」


 おおよそ聖職者らしからぬ言葉を吐き捨て、ウルベルトは悲痛な思いに駆られる。

 だが、悲嘆に暮れる間などない。

 処刑人が扉をこじ開けにかかる。


「おい、メアリー!? 連中が来たぞっ! 早くしろ!」

「うるさい! 黙って!!」


 無神経な喚きに集中を乱されて、メアリーが叫び返す。


 寝所は、至聖の館の四階に位置する。鳥の親戚でもない限り、逃げ道はない。

 もはや、袋のネズミも同然だ。


 ──教皇猊下さえ……! 教皇猊下さえ目覚めさせれば、何とかなるものを……っ!


 ウルベルトは焦燥にあえぐ。

 この状況を打破できるのは、メアリーの魔法しかいない。

 間に合わなければ、処刑人に串刺しにされるか、焼き殺されるか……どちらにせよ、愉しからざる運命が待っている。


 唯一の防壁は、長くは持たない。

 不意に、扉を突き破った手斧が顔をかすめ、ウルベルトは声を引きつらせた。


「もう持たんぞっ! メアリ-! まだかっ!?」


 返事の代わりに、けたましい破壊音が響いた。

 負荷に耐えかねた蝶番が弾け飛び、扉が倒れる。ぎゃ! と情けない悲鳴をあげ、ウルベルトは床を転がった。

 扉を破壊した処刑人たちが、殺気とともになだれこんだ。


「貴様ら、八つ裂きにしてやるぞ! 覚悟しろ!!」

 

 リベリオが顔を赤黒く染め、獰猛に吠える。

 復讐の刃が、背教者たちを取り囲んだ。

 終わりの刻が訪れた。


 教皇を目の前にして……あと一歩が、届かなかった。


「ソフィア、すまない……枢機卿エウラリオを……君との約束を、守れなかった……」

 

 激痛に耐えながら、ベネットは少女に詫びた。背後に庇うが……それは気休め程度にしかならないだろう……

 ソフィアは首を小さく横に振った。


「いいえ。ベネットさまは、立派に戦ってくださいました。次は、わたくしの番です」

「ソフィア……? 何を!?」

 

 ベネットが声をあげたのも無理はない。

 少女は前に進み出ると、処刑人からベネットを守るように、両手を広げたのだ。

 祖父の仇を真っすぐに見据える眼差しに、恐れはない。

 あるのは、決然とした覚悟だ。

 

 処刑人は薄く嘲弄を浮かべた。

 美しき自己犠牲ごっこに、付き合う気などない。少女へと、躊躇なく剣を振り下ろす。

 叫ぶ間もなかった。

 

 刃が少女を切り裂く──


「下がれ、下郎!」


 ──その、寸前。


 烈火のごとき叱責が響いた。

 声が不可視の鞭となって処刑人を打ち据え、斬撃を止めさせた。


 声は、寝台からだ。


「教皇……猊下……?」


 呆然とした呟きが、誰のものであったかは分からない。 

 ひょっとすれば、リベリオに影のように従う、処刑人のものであったかもしれない。

 ひとつ確かであるのは──深い深い眠りの底にあったはずの女が上体を起こし、一同を睨みつけている、ということだ。

 その双眸は、ピジョンブラッドのように赤々と燃えている。


 教皇ミスル・ミレイが、目覚めたのだ。


 力を使い果たしたのだろう……メアリーはぐったりと、寝台に倒れ伏している。

 教皇の背後の空気が、陽炎のように揺らいだ。

 魂まで射貫くような鋭い視線を向けられて、処刑人たちは剣を投げ出し、額ずいた。


 ──これは……眠り姫、なんて生易しいものじゃないぞ……! 

 

 朦朧とした意識の中で、ベネットは戦慄せずにはおれない。

 何人も寄せつけない凜然たる眼差しは、教皇というよりは、女帝のほうが相応しい。

 そして声は、抗うことを許さない、魔術めいたカリスマを帯びている。


 教皇は、長い眠りから覚める。

 それは混沌とした事態が、新たな局面に入ったことを意味していた。

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