第84話 白い悪魔が動きだす

「ベネット! 無茶をしよって!」


 ウルベルトは舌打ちし、ベネットへと駆け寄った。上半身を抱え起こそうとし……べっとりとついた血で、手が滑る。


「大丈夫……です……。まだ戦えます……」

「大丈夫なわけがあるか!」


 思わずウルベルトは怒鳴る。

 一目見て、重傷である。

 血で濡れた祭服は重い。傷は浅くない──出血が多すぎる。


 一刻も早く、医師の処置を受けさせたいところだが……気休め程度の止血を施すと、ウルベルトはベネットを手近な壁に寄りかからせた。


「苦しいのは分かる。だが、今は耐えろ。よいな?」


 力なく頷き返されたのを確認して、視線を転じる。まだ、やるべき事があった。

 呆然とした面持ちのメアリーの足元に、エウラリオが倒れている。


「これが……さっきの男の子なの……?」

「そうだ」


 しぶい表情のまま、ウルベルトは首肯した。

 床に倒れ、弱々しく肩を上下させるのは、紅顔の美少年ではない。

 八十歳ほどの、痩せた白髪の老人だ。先刻までの、ヒリついた威圧感は消え失せている。

 この老人こそが、エウラリオの本来の姿なのだ……


 ウルベルトは立ち上がると、変わり果てた同僚を見下ろした。


「エウラリオ、聞こえるか。決着はついた。卿を拘束する」

「……ウルベルト……」


 喘鳴とともに、老人の口から、しわがれた声が漏れ出た。


「間違っていた……不死など……求めるべきではなかった……。ウルベルト、あなたの判断は正しかった……」

「……なんだと?」


 ウルベルトは驚きをもって、老人の顔を見やった。

 その声音は、敵意ではなく──後悔の色を帯びている。時間稼ぎの弁……ではない。

 淀んだ老獪さを漂わせた両眼は、清廉な聖職者のものへと変わっていた。


「卿は──エウラリオか?」


 その問いかけは、いささか奇妙であったかもしれない。

 老人はエウラリオだ。ただし、先ほどまでのエウラリオとは、明らかに違う。


「精神支配、か……! どこまでも汚い手を」


 ある可能性に思い至り、ウルベルトは憎々しげに下腹を揺らした。

 アルヴィンから、協力者であった女史が、会主に精神支配されたと聞かされていた。

 エウラリオもまた、意思に反した服従を強いられていたのではないか……つまり銷失の魔法は、精神支配までも消し去ったのだ。


「ゴーヨク!」


 と。

 思索に、メアリーの声が割り込んだ。

 現実に意識を切り替えて、ウルベルトは顔色を変えた。


 エウラリオが長剣を手にしていた。切っ先を、自身の喉元に向けて、だ。

 その意図は、問うまでもない。


「エウラリオ! 馬鹿はよせ!」

「私は……取り返しのつかない罪を犯してしまった。ソフィアの両親もこの手で……命をもって、償う他ない……」

「卿がひとり死んだところで、何の贖罪になる!」


 精神支配が解けたエウラリオの、悔悟は深い。

 だがウルベルトは本気で腹を立て、声を大きくする。 


「自死したところで、償いにはならぬ! 罪から逃げただけだ。孫娘の両親だけではない、卿は多くの無辜の民の命を奪ったのだぞ」

「ならば……どうしろと?」

「教会の暗部を、洗いざらい話せ。ステファーナを裁く協力をするなら、罪が軽くなるよう嘆願してやる」


 不本意な服従を強いられていたとはいえ、エウラリオの罪は重い。

 地位と財産、自由、全てを剥奪されるだろう。

 それでも粛正さえ免れれば、孫と慎ましやかな余生を送れるかもしれないが……可能性は極めて低い。


 ウルベルトは分厚い手を、エウラリオへ差し伸べた。


「しけた面をするな。卿にはな、たっぷり貸しがあるのだ。誰が何と言おうと、きっちり払い終えるまで、どこにも逃がさん」


 台詞は、悪徳高利貸しさながらである。

 だが声には、不思議と──この男には、全くらしからぬことだが──人情めいた響きがあった。

 エウラリオは、しばし沈黙した後、顔をあげた。


「あなたとは、最初から馬が合わなかった。ですが今は……感謝しています」

「悪い気はせんな」


 ウルベルトはニヤリと笑う。

 二人の枢機卿は、手を握り合った。


「決まりだ! さあ、教皇猊下の呪いを解くぞ。ぐずぐずしておると、焼き殺されかねんからな!」


 たしかにその通りである。

 火の周りが早く、煙は刻一刻と濃さを増している。

 そして不運なことに、立ちはだかる障害は火災だけではなかった。

 往々にして困難は──最悪のタイミングで、仲間を連れてくる。 


 パン! パン! と、乾いた発砲音が響いた。


「──エウラリオっ!!」


 固く握ったエウラリオの手が、不意に力を失った。

 ウルベルトの眼前で、老人の祭服が見る間に赤く色を変える。胸元に、塞ぎようのない、二つの銃創が穿たれている……

 何が起きたのか。


「くはははははははははっ!!!」


 神経を逆なでする哄笑が沸きあがり、一同の耳を不快に刺激した。

 それが誰なのか──誰何するまでもない。

 

「リベリオっ!!」


 その場にいた全員が、宿怨のこもった声を投げつけた。

 白を基調とした祭服に、顔の上半分を覆い隠す白い仮面。個性の墓場とでもいうべき格好をした男が立つ。

 背後には、抜剣した数人の処刑人が亡霊のように控えている。


 拳銃を手にした男は、仮面の奥の両眼に復讐の炎を宿らせた。


「馬鹿どもめ! 俺をコケにして、タダで済むと思ったか!」

「おじいさまっ!」


 嘲弄を、少女の悲鳴が上書きした。 

 処刑人の腕の中で必死にもがくのは、ソフィアだ。


「離して!!」


 少女が叫ぶ。意外なことに、願いはあっさりと聞き入れられた。

 リベリオが目くばせをすると、人質は解放される。

 ただし──それは、善意からの行動では決してない。


「おじいさま!!」


 エウラリオへと駆け寄る少女の背中に、銃口が向けられる。


「地獄へ落ちろ、背教者ども!」


 悪辣な笑みを浮かべ、リベリオは引き金を引いた。


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