第66話 目覚めの朝に
早朝の清涼な風が、カーテンを揺らした。
ジャスミンの花の、甘い香りがかすかに薫る。
アルヴィンは、心地よいまどろみの中に身を委ねていた。
長い間、眠っていた気がする。
こんな安らかな気分は、いつ以来だろう──?
思えば、ずっと走り続けてきた。
始まりは、父の死だった。
白き魔女を追うためオルガナへ入校し、アルビオでベラナに師事した。
そこで彼女と出会い、父の死の真相を知った。
その後は──そう、彼女を探すために聖都へ赴き……聖都へ…………彼女を………
……聖都……………………?
──聖都で……何があった!?
アルヴィンは跳ね起きた。
頭にかかった靄が、急速に晴れていく。
咄嗟に胸に手を当てた。
──薔薇園で、ステファーナに胸を撃たれたはずだ。
真っ赤に染まった手、闇の奥底へと引きずり込まれる感覚。
はっきりと覚えている。
だが、胸に傷はない。痛みもない。
そして撃たれた後の記憶が……ない。
──ここは……どこだ?
アルヴィンは呆然としながら、視線を巡らせた。
寝かされていたのは、清潔なシーツが敷かれた、ベッドの上だ。
どこかの邸宅の一室だろう、危険はないように感じる。
刹那、アルヴィンの胸の鼓動が飛び跳ねた。
思わず、我が目を疑う。
ベッドにもたれかかり、眠っている女がいる……
「……クリスティー?」
信じられない光景だ。
手の届く距離に、彼女の寝顔があった。
──そうか……。まだ、夢の中にいるのだ。
アルヴィンは、妙に納得した。
彼女がこんな近くで……しかも無防備に寝息をたてるなんて、夢以外に考えられない。
だとすれば、これくらい許されるのではないか──ふと、魔が差す。
クリスティーの、はらりと落ちた前髪に、手を伸ばす。
絹糸のように艶やかな髪をすくい上げると、けぶるように長い睫が呼吸にあわせ、僅かに震えているのが見える。
寝顔でさえ美しい。
「王子様のお目覚めね」
目が、合った。
クリスティーが、悪戯っ子のように微笑んでいた。
一瞬硬直した後、弾かれるようにしてアルヴィンは手を引っ込める。
「ク、ク、クリスティー!? 起きていたのかっ!?」
みるまに顔が紅潮し、ベッドから転げ落ちんばかりに狼狽する。
後ずさり、天蓋の柱に後頭部をしこたまぶつけて、夢でないことを確認させられる。
普段の冷静沈着なアルヴィンからは想像できない、体たらくだ。
「す、すすまないっ! てっきり夢かと……!」
「いいのよ」
どぎまぎするアルヴィンを見て、クリスティーはクスクスと笑った。
「目を覚ましてくれて嬉しいわ、アルヴィン」
「君が……助けてくれたのか?」
黒髪の青年とダークブロンドの美女は、しばしの間見つめ合った。
側にいるということは、つまりそういうことなのだろう。
だが返答までに、僅かな間が生じた。
「あなたが助かったのは、皆が力を尽くした結果よ」
それは、噓ではない。
ウルベルトの財力、メアリーの魔法、黒猫ルイの勇気……ひとつでも欠けていたら、生還は望めなかっただろう。
クリスティーは、深くは語らない。自らの命を分け与えたことにも触れない。
アルヴィンを安心させるように、声音を柔らかくした。
「あなたは三日間昏睡していたの。ステファーナから受けた呪傷のせいでね。でも心配しないで、後遺症はないはずよ」
「三日も……!?」
アルヴィンは驚きの声をあげる。
長く眠っていた自覚はある。だが、あれから三日も経っていたとは……
脳裏に、禁書庫から還った後のやりとりが甦った。
禁書アズラリエルはステファーナに奪われ、古言語を解するフェリシアは精神支配された──
アルヴィンは失意にのまれ、肩を落とす。
「……すまない。アズラリエルは……奴らの手に渡ってしまった」
「いいのよ。私たちはまだ、負けたわけじゃない」
クリスティーの眼差しは力強く、落胆の色はいささかもない。
それは、決して強がりではない。
「奪われたのなら、利子をつけて返して貰うだけよ。そうでしょう?」
まるでカフェでカプチーノを注文するかのように、さらりと彼女は言ってのける。
教会を影から支配するステファーナの力は底知れず、生易しい敵ではない。
奪い返すのは、困難な挑戦となるだろう。
だが──不思議だ。
彼女となら、不可能ではない気がする。
「そうだな……僕たちは、まだ負けてはいない」
アルヴィンは、クリスティーを眩しそうに見つめながら、頷く。
いつだって毅然と前を向き、俯かない。
初めて会った時から、彼女はそうだった。
──きっと、何とかなるはずだ。
「あら。早速、お見舞いが来たみたいよ?」
と。
クリスティーが、扉へと視線を転じた。
その言葉を裏付けるかのように、ドタバタと、廊下を駆ける音が耳に届く。二人のいる寝室へ急接近してくる。
「──見舞い?」
直後、蹴り破るような勢いで扉が開かれた。
「アールーーヴィンーーー!!」
減速なし、容赦なし、トップスピードのまま、赤毛の少女がアルヴィンの胸元に飛び込んだ。
目覚めたばかりの身体は、不意打ちに反応できない。
不覚にも、そのままベッドに押し倒される。
「じんばいじだんだよーーーっ!!」
アルヴィンのうめき声を、号泣がかき消した。
メアリーは泣きじゃくる。
「メアリー……」
遠ざかった意識を、なんとか手繰り寄せて、アルヴィンは少女を見やった。
メアリーとは三年前の嵐の夜、墓地で別れて以来だ。
顔立ちが少し大人びたように感じるが……いや、少女は、あの時のままだ。
アルヴィンの服で鼻をかむ様子を見て、確信する。
「こら! 傷に障りますわよ」
新たな声が響いて、少女は悪戯をした猫のように引き離された。
背後にいるのは──
「せ、先輩がたまで……!? どうして、聖都に?」
「色々あったのよ」
「色々、ありすぎましたわね」
アリシアとエルシアが、そろって肩をすくめて見せる。
学院にいるはずのメアリー、そしてアルビオにいるはずの双子が聖都に──つまり、色々とあったのだろう。
アルヴィン自身、幻惑の魔女との対決、禁書庫の迷宮、そして生死を彷徨った三日間、とにかく濃密過ぎた。
「あなたが無事で良かったわ」
「本当に、心配したのですよ?」
普段、女王のごとく君臨する双子から温かい言葉をかけられて、アルヴィンは妙に落ち着かない。
何か裏があるのではないか──思わず勘ぐってしまう。悲しい習性である。
困惑を深めるアルヴィンに、エルシアが呆れたように言った。
「そろそろ入ってきたらどうなのです? ついてきてくれと言ったのは、あなたでしょう」
いや──それは、アルヴィンに対してではない。
「ベネット……」
アルヴィンは、咄嗟に言葉が出ない。
扉の脇に、ひとり離れて立つ少年の姿があった。
すれ違い、離ればなれとなった師弟は、ついに対面したのだ。
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