第61話 枢機卿ウルベルトはあきらめない
メアリーは、どしりと腰を下ろした男に、指を突きつける。
「あなたもしかして……ゴーヨク男!?」
「ウルベルトだ! 恩人の名前くらい覚えろ!」
唾を飛ばしながら、ウルベルトは吠える。
カッパの次は、強欲男扱いである。
三年前、枢機卿らを告発するため証人となった少女を保護し、オルガナへ匿ったのは、他ならぬウルベルトだ。
それにもかかわらず、名前の一つも覚えていないとは……小娘には、感謝の気持ちの一つもないのか。不機嫌に睨みつける。
だが、メアリーは怯まない。
「アルヴィンは……怪我をしているのっ!?」
「重傷だ」
ウルベルトは苦々しげに答えた。
コイツの名前は覚えているのに、何故俺は……と、ひがんだわけではない。
一連の逃走劇で、疲労困憊である。散財して入手した船は、処刑人に沈められた。
そんな局面で、メアリーと再会することになったのは、神か悪魔、どちらの導きなのか──
「お前こそ、どうして聖都におるのだ? 落第してオルガナを放校されたのか」
「ルイを探していたら、迷っちゃって」
「ルイ? 誰だ?」
話が噛み合っていない気がしないではないが、ウルベルトは聞き返す。
赤毛の少女に、同伴者がいるようには見えないが──
その鼻先に、ずい、と黒い仔猫が差し出された。
「この子よ! いい名前でしょ!」
「……悪くはない」
まさか猫が同伴者とは……呆れ半分でウルベルトは言葉を返す。
対してメアリーは上機嫌だ。
「でしょ、でしょ! 死屍累々のルイから取ったの♪」
「やめておけ、そんな名前!」
「どうしてよっ!?」
疲労に加えて、頭も痛くなってきたような気がする。
メアリーの独特すぎる感性は、理解に苦しむ。
憤慨する少女に、ウルベルトは問い直した。
「それで、カタコンベにいるのはなぜなのだ?」
「カ、カタ……?」
「カタコンベ。地下墳墓のことだ。水路代わりに利用されて、罰当たりなことだがな。アルビオにもあっただろう?」
「あったかも……」
急にメアリーは、声をげっそりとしたものに変えた。
愉しからざる思い出である。
かつてアルヴィンと、燃えさかる修道院から下水路を通って脱出した。
たしかそこを、アルヴィンはチカウンモと呼んでいたはずだ。
「臭いは最悪だが、姿を隠して移動する分には好都合だ。お前もついて来い」
ウルベルトは祭服の汚れを払うと──もはや、その程度で取れる汚れだとは思えないが──立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「修道院だ」
「……シュードーイン? 怪我をしているんでしょ、どうしてビョーインじゃないの?」
それは、もっともな指摘である。
だがウルベルトは、説明が面倒になったに違いない。
「見てみろ」
言って、アルヴィンの祭服の前ボタンを外す。そして無造作に肌着をめくりあげた。
「キャーーーッ!!」
突然、地下通路に黄色い悲鳴が響き渡った。
乙女の恥じらいで、メアリーは両手で顔を隠す。
指の隙間から、目を見開いてガン見しているが……
アルヴィンは祭服を着ていると、痩身に見える。だが魔女と渡り合うため、肉体を鍛え抜いているのだろう。
上半身は余計な脂肪がなく、引き締まった筋肉質である。
ふふふ……と、にやけたメアリーの口許が、不意に引き締まった。
「……どういうこと?」
口から、戸惑いが漏れ出た。
出血の部位からして、胸を撃たれたのだろう。
だが……傷が、ない。
どこにも見当たらないのだ。
それにもかかわらず、血が皮膚からにじみ、流れ続けている。
「これって? どうしてなの?」
「呪傷だ」
「ジュショー……?」
「この傷は、医師では処置できん。腕の立つ修道士が必要だ」
「修道士さまに会えれば、アルヴィンは……助かるのね?」
「分からん」
ウルベルトにしては珍しく、歯切れが悪い。
アルヴィンを再び背負うと、メアリーを見やった。
「だが、望みがないわけではない。急ぐぞ。修道院総長のウェントワースは、旧い知己なのだ」
修道院は聖都の中心部から離れた、旧市街の外れにある。
そこは数十人の修道士が共同生活を送る、静謐な祈りの場だ。
カタコンベから這い出したウルベルトらを出迎えたのは──違和感である。
静かすぎた。
いくら修道院とはいえ……静かすぎる。人の気配がないのだ。
中に立ち入ったウルベルトは、総長室を目指す。
既に太陽は没したというのに、院内は灯り一つない。
無断で足を踏み入れた一行を、見咎める者もいない。
──胸騒ぎがする。
総長室の扉をノックするが……返答は沈黙によって返された。
「いるではないか!」
業を煮やしてウルベルトは部屋へ入り、声をあげた。
ホッと、メアリーは安堵する。
執務椅子に、白髪の老人が腰掛けていた。
入り口に背を向け、思索にふけるかのように、窓の外を眺めやっている。
「ウェントワース! 他の者はどうしたのだ?」
ウルベルトは老人に近づき、肩を揺する。
身体がぐらりと傾き、椅子から転げ落ちた。
「──ちっ!」
漠然とした不安は急速に輪郭を帯び、確信へと変わった。
床に倒れた老人は……絶命していた。
首筋に、短剣が突き刺さっている。
「先を越されたか!」
忌々しげに、ウルベルトは舌打ちをする。
同時に、暗がりの中を、ぬめりとした殺意の波動が動いた。
「ゴーヨク男! 避けて!!」
俺はウルベルトだっ──と、抗議する余裕はない。
鼻先を白刃がかすめ、ウルベルトは腹の贅肉を揺らしながら飛び退く。
やはり、というべきか。
処刑人を前にして、もはや驚きはない。
「……いつからそこにおったか知らぬが、ご苦労なことだな。他にする事はないのか?」
ウルベルトは皮肉の矢を射る。
待ち伏せていた処刑人は、一人だけだ。
だが──対する背教者側は、肥満体の枢機卿と、死にかけの審問官、落ちこぼれの学院生、それに仔猫が一匹……それが、全戦力である。
処刑人にとって、造作もない仕事となるに違いない。
仮面の下で、毒のこもった光がちらついた。
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