第60話 甘いささやき
「──紅茶はいかがかしら、エウラリオ?」
朗らかな声が、小さな枢機卿を迎え入れた。
そこはステファーナ──つまり、教会の実質的な支配者の執務室だ。
だが教会特有の、慎ましさと厳粛さは、この部屋から微塵も感じとれない。
内装は、フェスティビティピンクと白を主体としたものだ。調度品は趣味の良い、アンティークで揃えられている。
頭上のクリスタルガラスのシャンデリアには、愛らしい天使のモチーフが凝らされていた。
まるで少女の部屋に迷い込んだかのような、錯覚に陥りそうになる。
部屋の主は楚々とした花柄のワンピース姿で、ソファーに腰掛けている。
その向かいには、先客がいた。銀髪の女が、革表紙の書に目を落としていた。
白く細い指が、紙面をなぞる。
古言語、だろう。燐光を放つ文字が浮かびあがった。
文字は形を変えながら、次第に青から緑へと色を変化させていく。
息を呑むような、幻想的な光景である。
その書こそが──禁書アズラリエルだ。
永らく禁書庫に封印され続けてきた、幻の書。
世界の記憶がおさめられたという、途方もない書である。
少女はスミレ柄の青紫と金色のティーカップを、ソーサーに置いた。
「いい茶葉が入ったのです。エウラリオ、あなたも飲むでしょう?」
改めて問われて、少年は首を横に振る。
悠長に、紅茶を楽しんでいる場合ではない。
「会主ステファーナ。急ぎお耳に入れたい件が──」
「グングニルなら、心配はいりません」
回答は、先回りして示された。
思いがけない反応に、エウラリオは愕然とする。
「ご、ご存知で……?」
「聖都は、我らが完全に掌握しています。グングニルは、しかるべき時期に、わたしの手に戻るでしょう」
少女の碧い瞳には、全てを見通すかのような色がたたえられている。
それは決して、根拠のない妄言ではない。少女が戻ると言えば、戻るのだ。
底知れない力に、畏怖の念が沸き上がる。
と。
──フシ ヲ エテ ナニニナル?
また、だ。
「誰です……!?」
不意に頭の中に響いた声に、エウラリオは掌で顔を覆った。それは先刻よりも鮮明で、強い。
「エウラリオ」
スッ、とステファーナが立ち上がった。
少女の声音と眼差しは、春の木漏れ日のように穏やかだ。
だが……かつて、大陸一の剣の使い手と称された男を圧倒する、何かがあった。
「──揺らぎましたね?」
「ち……違うのですっ……!」
気圧され、エウラリオは後ずさる。
背中が壁に当たり、数冊の書が足元に落ちた。
背後は、壁面全体が書架となっていた。
収められているのは、不死の達成のため大陸中から蒐集された、魔道書だ。手段は選ばれなかった。
足元に散らばった書から、血の臭いがした。
「ス、ステファーナ、お許しを……!」
エウラリオは狼狽え、声を震わせる。
「何を怯えているのです?」
少女が迫り、ひんやりとした手が、少年の青ざめた頬に触れた。
目鼻立ちの整った、端整な顔が近づく。
互いの息づかいが聞こえそうな……いや、唇が触れあいそうな距離である。
「か、会主……!」
「わたしを見なさい」
少女の声に、抗うことなどできない。
視線が交錯する。
恐怖を宿した目は──とろりと、恍惚としたものに変わった。
薄紅色の唇が、耳元で甘く囁く。
「可愛いエウラリオ。不死まで、あと一歩なのですよ? 死の影に怯える日々から、解放されるのです」
「……はい」
「これまで、どれだけ手を尽くしても、聖櫃に辿り着くことは叶わなかった。いかなる魔法の干渉も受けつけない、特殊な空間だからです。ですが──アズラリエルが、しるべとなる」
そう言って、機械人形のように書をめくる、フェリシアを一瞥する。
「あと、数日です。あなたの忠誠に期待していますよ?」
「──勿論です、会主ステファーナ」
エウラリオは頷いた。
その顔から、恐れは消えていた。全てを忘却したかのように、曇りのない笑みを浮かべている。
少年は、小首をかしげた。
「背教者アルヴィンは、いかがいたしましょう?」
「あの傷では、どのみち長くはありません。放っておけば良いのです」
ステファーナは、余裕に満ちた口調で断言する。
いや──僅かばかりの間が生じた。
上級審問官ベラナの最後の弟子、そして禁書庫からアズラリエルを持ち帰った男である。
保険は、かけておいたほうがいい。
ややあって、少女は忠実なしもべに下命した。
「念のため、処刑人を先回りさせなさい。行き先は知れています」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どこをどう歩いたのか、さっぱり思い出せない。
市場で見かけた、仔猫を追いかけていた。
それが……気がつけば、こんな陰気くさい空間を彷徨っている。薄暗い、地下通路のような場所だ。
迷路、と呼んだほうがいいかもしれない。
途中に部屋があったり、水路があったり、妙に入り組んでいる。
じめじめしていて臭いもヒドいし……とにかく気味が悪い。
「ここ……お化けとか、出てきたりしないわよね?」
黒猫を胸に抱き、メアリーは不安げに辺りを見回した。
お化けの類いだけは、本当に勘弁してもらいたい。
視線の先に、二メートル程の幅の水路があった。
黒く濁った水面が泡だったのは、その時だ。
しぶきが上がり、異変に気づいた赤毛の少女は悲鳴をあげる。黒い人影が突如として出現した。
「ひっ、カッパ!?」
「誰がカッパだ!!」
ずんぐりとした体型の、カッパが怒鳴り返してくる。人の言葉を喋れるとは、驚きである。
カッパは通路にあがると、背負っていた黒い甲羅を下ろす。
それはよく見ると──甲羅ではない。人間だ。
しかも、見覚えがある。
その顔を忘れようはずがない。三年を経て、少し大人びたように見えるが──
「──アルヴィンじゃないっ! どうしたのっ!?」
呼びかけに、黒髪の青年はピクリとも反応しない。
まるで死者のように、顔は青白い。
地下通路に現れたのは瀕死のアルヴィンとカッパ──いや、枢機卿ウルベルトだった。
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