第50話 救世主は遅れてやってくる

「お前たち!」


 権高な声が響き、作り物のような二対の目が光った。

 処刑人らに指を突きつけながら走り寄って来たのは、肥満体の男だ。

 黒の祭服に緋色の帯を締めた、枢機卿ウルベルトである。


 不吉な仮面をつけた処刑人の足元には、アルヴィンが倒れている。

 意識はない。


 生死は──分からない。


 幸いというべきか、悪魔めいた力を持つ少女の姿はない。

 ウルベルトは巨体を急停止させると、声を張り上げた。


「お前たち! ここで何をしている!?」


 再び発せられたそれは、叱責というよりは、小動物がみせる精一杯の威嚇に近い。

 肩をいからせるウルベルトに、処刑人は感情なく、機械的に言葉を返す。


「背教者を処分するようにと、枢機卿ステファーナからのご指示です」

「それはご苦労! だが、命令は変更だ。お前たちは警備に戻れ。俺が片付けておいてやろう」

「あなたが?」

「先ほどステファーナから、俺がやるようにと命じられたのだ。あ奴の気まぐれにも、困ったものだ」


 ウルベルトは、やれやれと大げさに肩をすくめる。

 無論、口から出任せである。

 処刑人は動かない。


 ただ、疑いに満ちた視線が返されただけだ。

 半信半疑……いや、一信九疑というところか。


「早く行け!」


 唾を飛ばし、怒鳴るウルベルトを前にして、処刑人はようやく動いた。

 形ばかりの一礼を施して、男らは去って行く。


 その姿が視界から完全に消えたのを確認して、ウルベルトはアルヴィンの側に跪いた。

 首元に、手を当てる。


 脈は──ある。

 心臓は弱いながらも鼓動し、胸は浅く上下している。

 胸元からの出血がおびただしい。顔は蒼白で、苦悶の色が深く刻まれていた。


 ひたひたと、死が迫りつつある。

 一刻も早く治療を受けさせなければ、手遅れとなるだろう……


「なぜ俺が、こんなことをっ」


 ぶちまけたい鬱憤は、一ダースでは足りない。

 だがそれは、時間が許さない。

 心底腹立たしげに、アルヴィンを背負い上げる。

 背中越しに、小さなうめき声が伝わった。


「ここでお前に死なれては困るのだ。生きろ!」


 ぞんざいに言い捨てると、ウルベルトは歩き始めた。

 アルヴィンを背負い、薔薇園を出た足取りは、絶望的なほど遅い。

 痩身に見えた青年の身体は、意外にも、ずしりとした重さがある。


 背教者の逃走を手助けする──事が露見すれば、ウルベルトも粛正されるのは間違いない。

 遅々として進まない足取りに、苛立ちが募る。  

 あんな稚拙な噓で、稼げる時間など知れているだろう。


「まったく、ベラナもお前も、厄介ばかり押しつけよって……!」


 足をよろめかせながら、ウルベルトは毒づく。


 ──と。

 突然、視界が開けた。


 顔を上げ、目に飛び込んだのは──聖都の街を二つに分かつ、川である。

 大陸有数の長さを誇る、クラウド川だ。


 おだやかな川面はエメラルドの色に近く、透明度はほぼない。

 河畔は、ベージュ色の自然石で護岸され、よく整備された散策道には、マロニエの街路樹が白い花を咲かせている。


 残念ながらウルベルトに、花を愛でる余裕などない。

 いや、そもそも金にも得にもならないものに、興味などない。

 求めるものは、走らせた視線の先にあった。


 五つのアーチが連続する、優美な石橋だ。

 それは教皇庁を始めとした教会の中枢と、旧市街を結ぶ。

 その先に、目的地がある。

 そこに辿り着けば……アルヴィンを救えるかもしれない。


 ウルベルトは橋を渡る。だが中程で、停止を余儀なくされた。

 行く手に、白い壁が立ち塞がった。

 橋のたもとに、処刑人の一団が待ち構えていたのだ。


「ちっ!」


 舌打ちとともに振り返り……背後にも、複数の殺気が渦巻くことに気づく。

 前後を塞がれた。

 退路はない、袋のネズミである。


 そして──


「他人の仕事を横から取るとは、いつからそんなに勤勉になったのです、ウルベルト?」

「──嫌な時に、嫌な奴だ」


 ボーイソプラノのような澄んだ美声が響き、ウルベルトは忌々しげに吐き捨てた。

 処刑人の背後で、微笑みを浮かべるのは──枢機卿エウラリオだった。


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